宮古島 その1

 着陸態勢になった。窓の外に流れる雲の動きが速い。機長から「気流の悪いところを通過しています。シートベルトを締めてください」とアナウンス。雲の中をゆっさゆっさ、横揺れがしていた。とつぜんモニターの眼前に滑走路があらわれた、同時に「ガグッン」と衝撃があって、宮古空港にランディングした。

北緯24度、東シナ海の島は亜熱帯海洋性気候である。気温29度、生ぬるい空気で上着を脱いだ。ふと、どこかでかいだ香りがよぎる。パラオ・サイパン、南国の香りだ。

宮古島空港

ハイビスカス・ブーゲンビリア花や葉の大きさがこの島の気候を語る。

ばなな

パパイヤ

マンゴ

パタゴニア氷河 涼を探して・・

ペレトモレノ氷河


2008.02月、アルゴアの「不都合な真実」を確かめに、アルゼンチン・チリにまたがる南米の果て、パタゴニア地方を歩いた。
氷河の溶解で、海面上昇が進むエリアである。

ペレトモレノ氷河は、広さ195km2、幅2km、高さ50~70m、崩壊の頻度が多くなっている。中央部から、氷の柱が前に倒れたかと思うと轟音と共に砕け沈み、アルヘンチーナ湖に流れて行く。

氷を欠いてオンザロックにしたい スコッチウイスキーは何?

崩れ落ちる氷河

流れる氷河のかたまり

氷河が削った台地

名峰アコンカグアを垣間見る

 

シルクロード その3 三蔵法師をたどる 

10年前の記録である。あの日、夢中で写した画像に背景が鮮明によみがえる。リライト編集した。   古代キジ王国 クチャ滞在。この王国に699年三蔵法師が立ち寄っている。 キジル千仏洞=1・5万平方kmの広さを持つ、古代キジ王国といわれ、清の時代にクチャと改名,西域36ケ国の大国だ。 南北200km、石炭・鉄が産出され、トウモロコシ・小麦の農産物や胡桃・ブドウなど・・天山南路の中部に属し東西文化の融合地である。遺跡の発掘で3000年前の人間の生活が解明されている。当時、キジ王国の人口8万人、そのうち僧が3万人。民衆は供養する人の負担に耐えられなくなり、イスラム教に改宗していった。当時の烽火大や監視台が軍事国の名残を残す。 3-7世紀仏教文化が栄え、長安に負けない都市計画の跡が見られる。     <鳩摩羅什 千仏洞の入り口に法華経の訳者で知られる鳩摩羅什の像が建っている。哲学を語るような細見の石の像にくぎ付けになる。   天台宗、広済寺資料より {西暦350頃~409年。「羅什」とも略称される。中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生れた。7歳のとき母とともに出家した。はじめ原始経典や阿毘達磨仏教を学んだが、大乗に転向した。主に、中観派の諸論書を研究。   384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、以後18年間で涼州での生活を余儀なくされた。のち、401年に後秦の姚興(ヨウコウ)に迎えられて長安に入った。以来、10年足らずの間に精力的に経論の翻訳を行うとともに、多くの門弟を育てた。東アジアの仏教は、鳩摩羅什によって、方向づけられたといってよい。 鳩摩羅什と『法華経』 3種が現在に伝わっている。なかでも、鳩摩羅什が訳した『妙法蓮華経』は名訳であり、この『妙法蓮華経』は中国の隋の時代の高僧である天台大師智顗(538-597)の法華経中心とした仏教へとつながり、日本の伝教大師最澄(天台宗)や日蓮聖人(1222-82)の仏教へとつながる。また、天台大師智顗とほぼ同じ時代、日本の聖徳太子(574-622)も羅什訳の『妙法蓮華経』を読んで有名な『法華義疏』を著作された・・・・・} とある。 キジ国は隋のはじめトケツ民族を滅ぼして安政仏教文化時代に敦煌文化を作った。 その後、チベット・トバ・カイコツ民族の仏教文化が続いたが、12世紀、モンゴルがカイコツに滅ぼされ政治不安を起きイスラム教に改宗され、1200年の歴史が消えてゆく。   背景に供養する僧の数が増え供養義務に耐えられなくなって改宗したとも言われ、偶像崇拝を嫌うイスラム軍がキジ千仏洞の壁画の仏像の顔や目を抉り破壊した。また、金箔は現地の民族がはぎとっていった。四角に切り取られた跡は外国の探検者や研究者に持ちさられ、一部はその国の博物館に展示されている。 クズルガハ烽火台=漢代、異民族の来襲を睨み、クチャのオアシスを見下ろす絶好の位置これも今は砂の中だ。 天山を望む壮大なスバシ(水源、ウイグル語)古城を見学。天山山脈の雪解け水がクチャ川に流れ、古代に築かれた古城。仏塔・寺院・城壁は、日干し煉瓦の崩壊し、残骸が残されている。ここにも三蔵法師も2カ月滞在したという。 <強風で予定変更> 深夜、南疆鉄道に乗って緑のオアシス、トルファン(火州)へ向かう予定が、強風の影響で列車はストップ。急きょ、小型バスでコルラまで5時間の移動となった。 昨年、強風で南疆鉄道が横転して怪我人が出ている。それを教訓に2日間ストップすることが決定したという。 ふと、パタゴニアの風速94mを思い出した。 翌日、コルラのホテルに到着。

天山山脈の峠にできたハイウエイをバスは6時間をかけてトルファンに入った、周りに緑はない、鉄の山、赤い砂の岩の間を巡法スピードで上り50km、下り50km見渡す限りのゴビタン砂漠で見慣れた風景が続く、黄沙で万年雪を頂く峰々は視界に入らない。  漆黒であるはずの夜も星は見えないという。タクラマカンの砂が粒子となって、中国内陸の工業地帯の上空でさらに汚染され日本海を飛び越えわが国に届く。 如何ともしがたい黄沙という怪物を改めて怖いと思った。

パインゴル・モンゴル自治区に属する石油の町コルラは、火力発電所、石油開発式部ある豊かで大きな町だ。内陸からエリートが入っているという。6月から8月は最高温度40度というから覚悟!年間降雨量16ミリ、年間蒸発量2500ミリ、この環境でなぜ農作物が育ち、人が生活できるのか? 「鉄門関」を観光、南新疆への通路を守る唐の時代からの関所だ。中国に26か所あるうちの一番西にある関所という。孔雀川の上流で厳しい地形に建っている。 631年、三蔵法師も通過したとか、1980年に修復されている。「シンジン」の詩碑がこの関所の様子を詠っていた。 名産は香り梨とブドウ、乾燥した自然環境を利用した葡萄の乾燥庫が林立している。日干し煉瓦もこのように使えば美観である。乾燥材・防腐剤を入れて1週間で乾燥し輸出されているものもあるようだ。日本で安く買える干しブドウと聞いた。

新疆政府は3か月ほどかけ自然乾燥して出荷する模範農家を3か所指定している。その一つの農家を訪問した。330平方mのブドウ畑で600種の栽培をしていた。この農家で夕食、家族ぐるみで接待してくれる。暑いので果実は甘い。

<トルファン滞在>玄娤三蔵が求法の途上に手厚いもてなしを受けた高昌故城(高昌王朝のあと)を観光。紀元前140年、前漢の時代キクシが建立した王宮だ。  

三蔵法師がインドにゆく前にもてなしを受け、ここに留まるように言われたが、3日の断食をして求法の意思の堅さを示した。それに感じたキクシはたくさんの路銀を渡し、帰途に必ずまたここに戻るように約束した。出発する前、路銀のお礼に300人の僧に1か月間仏法を講じた場所がある。三蔵法師は帰途にホータンでキクシは滅ぼされ、高昌王国は唐の支配下に置かれたことをきき、別の道を通って長安に戻っている。

  シルクロードで最も保存状態の良い遺跡だ。外城・内城・宮城に分けられている。乾燥地帯のため遺跡の保存がいい。  

1400年前の唐のものが残されている。四方が5kmある。 5世紀に既に唐の長安に酷似した街つくりが出来ていたらしい。今、世界遺産に申請され、修復工事がすすめられていた。 *西遊記で有名な火焔山=トルファン盆地の北東にあり、東北100Km、幅100km標高500m。孫悟空がここで牛魔王や鉄扇姫と戦ったという伝説で知られている。 赤い山に植物は一本もなく、山全体に溝の痕跡がある。炎の燃焼する様に似ているからこの名前に・・。

トルファンとは、ウイグル人の住む町という意味、ジュンガル盆地の一番低いところ、マイナス40mの海抜。火焔山は真夏、地表温度80度でナンが焼けて、砂に埋めると卵や焼ける。   鉄分を含む火焔山

アスターナ古墳群、 乾燥・酷暑・少雨のために千年の古墳が500個もミイラになって保存されている。 役人の墓・商人の墓・庶民の墓の3つの発掘された古墳を見学。 ここは地下の博物館、ミイラの産地とも言われ、たくさんのミイラや出土品の多くはウルムチの博物館に収納されている。

ベゼクリク千仏洞・・ 火焔山の木頭溝壁に彫られた洞窟が77個も現存している。壁画も残っているがドイツの研究者に持ち帰られベルリンで保存されている。大乗仏教の壁画だ。四菩薩とは、普賢菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・弥勒菩薩のことだ。 トルファン→ウルムチへ 交河故城=天山山脈から流れる二つの川の中州にできた城、断崖絶壁の山を削って造られた堅牢なお城だ。漢書に「車師前国、交河に都を置く。河は2本に分かれて城の下を流れ、それゆえ交河という。と記されている。元の末期に戦禍に滅ぼされた。2000年前の城と大仏殿、民居、バザールあと、各地に井戸ができていて、東門の傍にある6つの中の一つは今も水が流れているという。大仏寺院、事務室、貯金箱、牢屋、仏塔、赤ちゃんの墓などが残されている。赤ちゃんの墓に2つの説がある。ひとつは当時疫病が流行ったということ、もう一つは戦いに障害になる赤ちゃんを殺して埋めたという説。 2000年前の光景が彷彿と浮かぶ。この日干し煉瓦の街は、いま世界遺産に申請しているという。 <カレーズ>

地下に流れる天山山脈の雪解け水を効率よく取り込んで使うカレーズという仕組みを説明する展示館が出来ていた。竪穴を掘り暗渠を造り斜面を流していた。これで灼熱のトルファン盆地にどうして果樹農園ができたか理解できた。暗渠から流れる水がブドウ畑に今も利用されている。現在もトルファンに1200本近く存在している。

<風力発電>

ウルムチ近くの強風地帯にアジアで一番の風力発電所が出来ていた。400基の発電機で今後も増えてゆくという。あまりに風が強すぎるときは自動的に停止する、ドイツの技術が輸入され、今では国内で調達できるという。高さが30m、プロペラの長さが15m、柱の直径が3m・・。 昨夜、トルファンに雨が降った、年間に16mというが、一夜の16ミリ降ったらしい。みんな傘なしで歩いている。恵みの雨という奇遇な偶然に遭遇したわけだ。 翌朝、いやに涼しい、ホテル前のぶどう棚の下をジョギングした。節水の看板が立てられていた。

シルクロードその1・・タクラマカン砂漠

そこはアジア・ユーラシア大陸の中心にあり、氷を載せた山脈に囲まれているという。 崑崙山脈・天山山脈・アルタイ山脈に囲まれたタクラマカン砂漠は、日本の総面積とほぼ同じ広さ33万平方キロ。  雄大で奇異な砂の台地は、シルクロードの名と共に、古来から謎めいて語られてきた。
是非、訪ねたい場所であった。 今、問題にされる温暖化・気象変動は、黄沙の源のこの砂漠にどうかかわっているのだろうか?.このあたりにテーマを据え、私の「タクラマカン砂漠縦断の旅」が始まった。2007、7月のことである。
<新疆ウイグル自治区>  中国で海から最も遠い地域にある。中国の総面積の6分の1が新彊自治区だ。東北にモンゴル、西北にはロシア・カザフスタン・キルギススタン・タジクスタン、南はアフガニスタン・パキスタン・インドと隣接する地域。日本の4倍、イギリスの7倍、フランスの3倍以上と聞けば、その広さに圧倒される。  新疆の人口2000万人の46%がウイグル族。他に、カザフ族、モンゴル族、カイ族、キルギス族・チベット族・トケツ族などの少数民族がたくましく暮らしている。
新疆の「」の字、弓は戦争を中の土は土地をあらわし、一は山脈を示し、アルタイ山脈、天山山脈、崑崙山脈を、田は盆地を表し、ジュンガル盆地とタリム盆地のこととガイドの説明。なんというスケールの大きさ、難解だった漢字がこれですっきり腑に落ちた。
 成田空港から西安まで5時間弱・・時差を1時間戻した。国内線に乗り継ぎ3時間のフライトで万年氷河を載せた天山山脈が右に見えた。やがて飛行機は山脈を左に越えてウルムチ空港へ着陸。茜色の夕焼け雲が黄沙に消えていた。
新疆自治区の首都はウルムチ、ウルムチとは、ウイグル語で「美しい牧場」という意味らしい。砂漠が多いのに、ここの産業の80%は農業(米、綿花、ホップ、ぶどう、杏、イチジク)近年、油田探索が進められ、各地で石油産業が拡大していた。
10年前(2007年)、中国は「西汽東輸」という政策で西域開拓に力を入れていた。新疆で豊富に産出される石油を東に送るという国策だ。多くの内陸の大学生もこの地域の石油関係の業務に就いている。北京・上海に次ぐ給与で厚遇されていると聞く。  三つのシルクロードの起点、ハミは中国の喉といわれ、ここからのシルクロードはローマに延びている。その長さは7000kmと記録されている。
西域南路=ハミ・・ニヤ・ケリヤ・ホータン・ヤルカンド・カシュガル→インド→アフガニスタン→ローマへ 。天山南路=ハミ・・トルファン・コルラ・クチャ・・・カシュガル→キルギス→イリ→ローマ 。天山北路(草原ロード)・・ハミ→パリコン・ジムサル・イーニン→キルギス・・ローマヘ。まさにすべての道はローマに通じていた。                      
ウルムチ市街
          
デパートの開店を待つ行列
ウルムチ市街地は民族文化の融合が息づき活気がある。新時代に駆け足でそのベールを脱いでいる感が・・。人の動きが早い、あふれる車・建設中の建物が林立し、溢れんばかりのエネルギーだ。
ウルムチ→天山山脈東部の最高峰、ボゴタ峰の中腹にある氷河湖「天池」をミニクルーズ・どこでも見られた観光客相手の土産もの押し売り現象は今も変わっていない。
 
楼蘭の美女
ウイグル博物館で4000年前のミイラ「楼蘭の美女」に対面。 ニヤ遺跡(日本の小島氏が私財を投じて発掘)の小河墓地から出土したニュースはNHKでも放映されている。年間降雨量16mm、年間蒸発量2500mmの乾燥地帯は、さながらミイラの産地といわれ、各地で発掘された200体がこの博物館に保管されている。
民族の十字路、カシュガル
夜、空路、カシュガルへ移動。 西域南道からシルクロードをヤルカンド→ホータン→ケリヤ→ニヤとオアシスの街を辿り、ニヤからタクラマカン砂漠公路を縦断するコースのスタートだ。  元ソビエト領事館の後を改造したカシュガルのホテルに着いたのが午後10時を過ぎていたが日没が遅い、露店にシシカバブの売店の煙がたちこめている。中国人とは思えない鼻梁の高い顔、目の細い丸顔の漢民族、ロシア系・キルギス系とそれぞれの言語と文字を持つ、民族のるつぼだ。若者が多いが高齢者も目立つ。ぽつねんと所在なさそうに路上にたたずむ老人も・・・
翌日、世界の屋根、パミール高原へ、国道314号線はウルムチ→パキスタンまで1990kmに延びている。 天山山脈、崑崙山脈、カラコルム山脈・ヒマラヤ山脈・シントク山脈の5つの山を称して世界の屋根を総称してパミール高原という。4000m級の標高では山に名前が付かないという。K2もカラコルム山脈に入っている。      
    黄沙のキルギス族の村
止まない黄沙
朝から砂が市内を覆い全く視界が利かない、どんよりと曇って雨の前のようだ。風はない。例年、黄砂のシーズンは4月中旬から下旬までの2週間なのだが、今年は1か月も続いて長引いているという。ホータンの方からタクラマカン砂漠を吹く風が気流の変化で異常をきたしているらしい。 40名乗りのしっかりしたバスだが車内に置いたペットボトルまでがざらざらしてくる。マスクを付け、サングラスをかけ、帽子・スカーフで頭を覆うという異様な格好だ。いつしか、口を詰むんで鼻呼吸の癖が付いた。徐々に咳をするメンバーも増えている。
世界の屋根へ
 ゴビ砂漠を駆けて、標高3600mの氷河湖・・カラクリ湖までドライブ。この辺りで高山病になる人もいるという。風が強く黄沙が舞い飛び、視界がぼんやりしている。湖の後方に、コングール山、ムスターグ・アダなど7000m級のパミールの雄姿が仰げる筈であったが、まったくの幻影になった。日中の太陽もぼんやりで輪郭がはっきりしない。これでは紫外線も届かず日焼けも避けられるだろう。  そういえば、このすぐ隣はアフガニスタンだ、北にタジキスタン、南のカラコルム山脈を越えるとパキスタン・インドに続く。世界の屋根を切り開いて道路が整備されている。かつて法典を求めてインドを目指した玄宗法師が旅した道だ。 
 
整備された2車線の道路を、人も馬車も牛車も自転車も自動車も走っている。 オアシスの学校近くでは、、車のスピードを抑えるために盛り上がり地帯をつくっている。徐行の標識をつくっても誰
も守らないそうだ。
   
ゴビ砂漠
石と砂利と砂の平原が続く、わずかに植物は、タマリスクとラクダ草など、やがて切り立った峻厳な岩山が続く。赤い岩と山は鉄分を含み、側を流れる川も赤い水だ。黒い岩山は石炭だ。この地域に資源は豊富だが採掘する技術がない。  色彩を排した無機質な風景がどこまでも続く。ウイグル民族の住む西の果てを過ぎるとキルギス族の住む地域に入った。ヤギ・ヒツジを放牧している。 天山山脈は東西に全長2000km、幅300kmの万年氷河を頂く山並みが、砂の台地から見える筈なのだが、ここからの眺望も黄沙に阻まれた。  近年の温暖化現象は、この雪解け水を大量に流し、道路を決壊させている。2008年、北京オリンピックまでに修復を急ぐ光景に何度も出会った。  この水はミネラル成分を多量に含んでいて、周辺ではコシヒカリ並みのおいしい米が採れると、現地ガイドの説明。温暖化で降る雪が少なく、溶けて流れる水が多くなると・・・これから先の心配
も。
資源開発、原油・天然ガス・石炭・鉄
カシュガル地域は、どこも油田の上にあるらしい、中国石油(ペトロチャイナ)のガソリンスタンドが至る所に見られた。石油産出地だが原油からの精製はごく一部で、多くは原油のままタンクローリー&パイプラインで内陸に送られている。従って産油地でありながらガソリンの値段は高い。言語・宗教・文字は違えども公用語は中国語だ。山に地下に埋もれる未開発の鉱物資源は計り知れない。
早晩、このエリアに経済の論理が入ってくるのであろう。中国の国旗がはためいていた。  道路の側溝に光ファイバーのケーブルを埋設するパイプが並べられていた。 電子通信のインフラ整備が加速している。この僻地の民族の村にも世界を小さくするツールが入り、徐々に文化を変えてゆくのだろうか?数日前の新聞報道では、シリコンバレーのVC(ベンチャー・キャピタル)の投資マネーが中国向け53%増と報じていた。
しかし、上下水道インフラは手付かずのままなのだ。そこで私たちは、たびたびの青空休憩を体験することに・・。来年、8月には北京オリンピックが開催される、この道路をユーラシア大陸の各地から多くの観光客が往来するのだろう。それまでに下水道が間に合うとは思えなかった。
翌日・・・カシュガル滞在
カシュガルは中国最西端にあり、シルクロードの要地として栄えたオアシスの街。西はパミール高原、南はグジラ河まで、北はタクラマカン砂漠、西側との交易があり、特殊な文化と彫刻・工芸品などが盛んだ。 職人街(楽器や工芸品)を散策、まさに職人の街だ。楽器や織物、木工、刃物類など鉄器・タイヤなど手作業の職場兼即売店になっている。これがバザールで売られる、中に木工技術を8歳ぐらいの子供に教えている親子がいた。
20万人のバザールで迷子になる
新疆最大のバザールといわれる日曜バザールへ・・20万人が各地から集まる。ここには「鶏のミルク」以外は何でも売っているという。カラフルな布は整然と大量に陳列されており、1週間分の必要な生活用品、祝い事の品々や民族衣装を買いに来るのだという。  入り組んだ通路が迷路のようになっていて、この人込みで迷子になったら大変と思いながらも・・なんと私が迷子になってしまった。買い物に興味のない私は、集合場所がこの直線この方面だからとのガイドの説明で先に動いたのが間違いだった。
言われたところに集合場所が見つからない。(実は次々に簡易店舗が出来て様変わりしていたのだ)あせって探すが集合時間だけが気にかかる。  この人ごみではウイグル語しか通じない、日本語はともかく英語もまったく通じない。むやみに動いてもだめだと気が付き、電話機の置いてある場所を探した。ホテルに電話して現地ガイドに連絡してもらうのが先決と気が付く。ホテルの電話に出たのもウイグル語、何とか英語で自分の名前・ツアー名・ガイド名と今いる場所を汗だくで伝えた。ホテルのご主人にタクシーで迎えに来てもらうという顛末に・・・グループメンバーの時間を空費してしまってひたすら謝罪!迷子初体験だった。
 翌日・・・カシュガル郊外にある「モロ仏塔」へ→平山郁夫の世界が砂の真ん中に残されていた。物言わず土の塔が砂の平原に・・嘗てオアシスで栄えた街は砂の中に、はるかに白っぽく外堀の壁の跡と貯水池の跡が見えた。イスラム教徒が仏教徒弾圧のために水流を止めたのだといわれる。また、1600年、唐の三蔵法師が立ち寄って滞在した跡という。少し離れて烽火(のろし)台が残っていた。当時のオアシス、カシュガルの在ったところだ。他国からの侵入を知らせる軍事情報として使われていた。このようなのが各地に残っている。
カシュガルからヤルカンドへ180kmの砂漠を走る。 1999年に開通した南疆鉄道の線路がまっすぐに通っている。カシュガル→ウルムチ間を1日2往復、2週間前にはチケットが完売されると
う。
ヤルカンド王陵・・・その昔、ハン王国の王宮あったところの今は、陵墓と監視台のみが雑然とした喧騒の中にあった。
 

伊豆 下田→石廊崎

下田港 ペリー提督艦隊・・開港の歴史の舞台となった。160年前のことである。 開国博物館を訪ねた。伊豆半島の小さな港町である下田が、外国との部員か交流の先駆けとなった歴史が詰まっている。黒船に乗って湾内をクルーズした。 弁天島があった。港のすぐ近くである。幕末・明治維新の精神的指導者「吉田松陰」が、停泊中のペリー艦隊へ密航を試みた場所である。緑に包まれた小さな島は静かで、日本の夜明けにかかわったとは・・・。

ナマコ壁

ペリーロード

  ペリーロードを歩いた。ナマコ壁の建物が目立つ。 白と黒の碁盤目が斜めに交差する”なまこ壁”は、古風で独特の下田情緒をかもし出している。商家の土蔵や民家で使われていた。竹の骨組という。 石廊崎灯台 伊豆半島の最南端、石廊崎灯台に着いた。海が美しい突き出した岩によじ登る。 地中海のそれとまがう美しい海岸線、日本再発見である。

伊豆七東

土産物屋にキンメダイの干物が並ぶ、南伊豆である。

炎の焼き物

赤穂線(岡山→姫路までのローカル線)を旅した。備前焼のふるさと伊部で下車。炎の焼き物として愛好者は多い。私もその一人で、花器や茶器に何点か所持している。自然に近い土のぬくもりがいい。火襷(たすき)やぼた餅などの模様は、窯の中で藁が自由に踊って創るという。限りない自然体、だから全く同じものはないのである。名陶工は、「炎や煙の色、肌に感じる空気で焼き上げ、温度計は使わない」と言っていた。ec8e2fba3e9452cf6d78affdf70557ea-600x4001 Windowに備前焼を並べた町並みを散策した。裏手にレンガ造りの煙突がのぞいている。 老舗に並んだ備前の器を目で愉しんだ。この皿にはこんな料理が・・と想像を膨らませて・・。どの食材でも器とけんかしないのがいい。inbemachinami1img_1117img_1120img_1123img_1129img_1122img_1126

Pearl Harbor (真珠湾)

安倍首相が”真珠湾”を訪問し,犠牲者を慰霊するというニュースが報じられた。今年5月には、Barack Obama大統領が、広島の原爆慰霊碑に献花されている。戦後70年を経て叶ったことを評価したい。私がノルマンディーを旅して,急かされるように真珠湾を訪ねてから5年が経つ。再度編集してアップした。

Pearl Harbor 真珠湾 機内から見えたPearl Harbor
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USAハワイ州にある天然の良港のこと、「真珠湾」日本人がこの単語から連想するのは、太平洋戦争開戦記念日、奇襲攻撃、「ニイタカヤマノボレ一二〇八=大本営から機動部隊に送られた戦闘開始の暗号電文」「トラ・トラ・トラ=空母赤城に打電された奇襲成功を知らせる符丁」などではないでしょうか。私もその程度の知識しか持ち合わせていなかった。
この年、旅したノルマンディーで第二次世界大戦の傷跡を目の当たりにした。関心を持つうちにいつの間にかPearl Harbor行きを計画していた。 期せずして「鳴海 章」のフィクション著書「真珠湾、遥かなり」700頁の(徳間文庫)に出会う。拘っているとサポーターは向こうからが現れるものらしい。福運に感謝!12月5日、この本を貪るように読み進みながらDelta Airlineホノルル直行便に乗っていた。現在、この真珠湾に二つの記念館がある。ひとつは12月8日に日本軍機に沈められた戦艦アリゾナの上に建つ記念館(USS Arizona Memorial)とそれから4年後、ポツダム宣言を受諾し、東京湾で日本が無条件降伏した時に、降伏文書調印式の行われた「戦艦ミズーリ記念館」(Battleship Missouri Memorial)である。 太平洋戦争開戦第二次世界大戦の終戦のMemorialが静かに横たわっていた。私はここの観光ツアーに英語ガイドを避けていた。早朝、午前7時のホテルピックアップは、アリゾナ記念館へのチケットを早くGetするためのようだ。12月8日はこちらでは開戦記念日の翌日である。このツアーにはカメラの他はポケットに入る程度のものしか持ち込めない。小さなバックもポシェットも不可。館内へはセキュリティを受けて入る。 ツアーメンバーは日本人11名、メンバーの中に観光客らしくない男性が2名、後で聞くと昨日、開戦記念セレモニーメディア席で見ていたというオフィシャル参加者。ホノルルのツアー会社が「日本の観光客にどういう説明をしているか」知るために参加したという。
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ハワイが中心にある環太平洋の地図が床面にある
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<真珠湾、遥かなり・・より抜粋> 12月8日(日本)オアフ島の北320㎞に終結した、33隻の機動艦隊、6隻の航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴)から飛び立った353機(第一次183機、第2次170機)、操縦した飛行隊員鹿児島の海軍兵学校で訓練を受けてきた若人だ。海軍はじまって以来の大艦隊が編成されたが、ハワイ空襲部隊に選ばれた選りすぐりの飛行機乗りは「一番乗りで敵機を撃破するのだ」と仲間と語り合う誇り高い憂国の若人だ。日露戦争東郷平八郎は艦隊に発信した「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」 (連合艦隊参謀・秋山真之の草案) "The destiny of our empire depends upon this action. You are all expected to do your utmost"  と後日英訳されている。 こ文言に志気を鼓舞された若者たちの日常をフィクション小説はリアルの描いている。 <暗号文解析> この戦争で山本五十六は最後までこだわったのが、「奇襲攻撃」という卑怯な手段を日本人として避けたかったということだ。「攻撃1時間前にワシントンDCに打電せよ」と外務省に宣戦布告文暗号を訳させていた。 暗号アルファベット26文字を一定の演算手順に従って置換することで作っていた。たとえばAをB、BをCのように1文字づつずらして変換して文章にする。このずらす文字を5文字分とか2文字分とか、予め送受信者との間で取り決め、且つずらす文字を前とか後にして暗号文を交換していたという。当時、外務省の担当者は新しいJ式暗号式に慣れていなかった。97式欧文印字機タイプライターでの解析作業に手こずり、約束の時間に間に合わなかった。四苦八苦の末にようやく、ワシントンに打電されたのは真珠湾攻撃の1時間後と報じられている。ゆえに奇襲攻撃と世界に喧伝されている。 <奇襲にかかわるもう一つの事実>・・5席の日本軍特殊潜航艇  5隻の大型潜水艦に載せられてハワイに運ばれ、12月7日の攻撃に参加した5隻の小型の潜航艇がある。ドイツで設計され日本で建造された、全長12mの2人乗り、魚雷が2本発射できるものだ。艇の頭部にも起爆装置があるので捨て身の体当たり、片道切符の潜水艇だ。一隻は故障により操縦不能になり、オアフ島の岸辺のサンゴ礁に打ち上げられ、海軍少佐一人が捕虜第一号となった。2隻の特殊潜航艇は開かれた防潜網をくぐり抜けて空襲よりも1時間前に真珠湾に侵入したが、この一隻が12月7日午前7時前にアメリカの駆逐艦モナガンによって撃沈されている。残る3隻も攻撃する前にアメリカ艦船からの砲撃で撃沈している。 <飛行兵達> 厳しい軍律の中、強固な精神力で過酷な訓練に耐えて、飛行技術を身に着けた者だけが選ばれている。貴重な軍機である。母艦から最短で60mの滑走で海に飛び出してゆかねばならない訓練なのだ。特攻機が抱える爆弾は250kを超える。よろよろと海面すれすれまで機首を下げ、ようやく浮上する場面がリアルに描かれていた。 「真珠湾、遥かなり」本文より伐採 「機体がはじかれたように飛び出す。右のブレーキを一瞬だけかけ、機首を右に振ることで零戦を飛行甲板の中心線にのせた。機首に正対すると、両足をブレーキペダルからフットバーにのせた。気速が50ノットを超えれば方向舵が訊くようになる。 左に顔を向けた。艦橋構造物、側路、ポケットやラッタルまで群がった誰もが帽子を力のかぎり振っている。口を大きく開けているのがちらりと見えたが、爆音にかき消されて彼らの声は届かない。 右手は操縦桿を握ったまま、左手を挙げて振る。 飛行甲板が途切れ、その向こうには無限の闇が広がっていた。 知らず知らずのうちに下唇を噛んでいた。 操縦桿を突くまでもなく、零戦は滑走を始めて間もなく尻を持ち上げた。操縦桿を中立に支えたまま、さらに気速を稼ぐ。 背中がジュラルミン製の座席に押し付けられる。 その時、ふわりと胃袋が持ちあげられのを感じた。こめかみが膨れあがる。落下していく感覚に襲われたのは、飛行甲板が沈み込んでいるせいだ。甲板前端の向こう側に白波の立つ海面がのぞいた。 「南無・・自然とわいてきた経を噛み殺す。操縦員を救ってくれるのは、操縦桿を握っているおのれ以外にない。神や仏の摂理にしたがうのなら翼を持たない人間は地上を歩くべきなのだ。不格好な人工の翼で飛ぼうとする人間には神も手を差し伸べてはくれないだろう動翼が風を噛み、操縦桿とフットバーがかたくなる。 飛行甲板の切れ目は目前に迫ってきた。 機体はあっさりと甲板から洋上へ飛び出した。泡立つ海面が急速に迫り、下向きの気流が機首を押しさげようとする。思わずうめき声を漏らした。下半身が遠のき、わずかに小便が漏れる。恐怖が膨れあがり、操縦桿を引けと本能が命ずるが、操縦員として培った第二の本能が生理を超克した。 あわや海面に衝突・・その寸前、そっと操縦桿を引いた。充分に気速の載った零銭は敏感に反応し、機首を上げる。操縦桿を左手に持ち替え、右手で脚切り替えレバーを引き上げる。さらに気速を増した零戦は前を行く編隊僚機を追って上昇に転ずる。さらに先には小隊長機の白い点滅信号が見えた。・・・」 このような状況で353機6隻の航空母艦から飛び立ち編隊を組んで真珠湾上空へたどり着いたのである。雲が厚く上空から目的地を探すのに苦労している。手に汗する緊張感で読み進んでいた。この時点で無事に帰還できる保証はない。このような環境の中で芽生えた友情や同志との強い絆が情感深く描かれている。実際には29機を残していったん母艦に帰還している。 <アリゾナ記念館>(USS Arizona Memorial ) アリゾナ記念館は、パールハーバーの海上に建設された白亜の墓苑Cemeteryであり、慰霊塔でもある。それ故に誰もがしめやかに慰霊の気持ちで訪れる所である。 沈没しているアリゾナ戦艦を横切る形で橋のように建造されている記念館には一度に200名が入ることができる。中に入ると当時を忍ぶ展示品が飾られ、前方にはこの艦船で戦死した1177名の名前が刻まれた大理石の壁が設置されている。新しい花束の数が昨日の記念日セレモニーを教えていた。私も静かに頭を垂れ冥福を祈った。中央に沈んでいるアリゾナ戦艦を上からが見えるように設計してある。目を周りの海面に転ずると、アリゾナの主砲塔四基のうち一基の主砲塔リングが見える。
アリゾナの爆発から69年が経過した2010年の現在も船体からオイルが漏れ続き水面に浮かんでいる。乗組員達は最後の生存者が死ぬまでオイルは漏れ続けるだろうと語っているとか・・。生存者の多くは、自らの死後火葬の上、遺灰をアリゾナに撒いてもらうよう望んでいるという。追悼式が毎年生存者も参加して行われている。アリゾナ記念館は海上にあるため、訪問客はまずビジターセンターで入館時刻の記載されたチケットを購入する。シアターで20分のドキュメント映像(英語)を見た後に、約15分専用船でクルーズし、湾の中ほどにある記念館に入館した。
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アリゾナ記念館全景
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専用船桟橋に続くエントランス
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65年前のアリゾナ戦艦が見える
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今もこの下に眠る1177名の戦没者名
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4基のうち残った一基の主砲塔の一部
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祭壇
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アリゾナ記念館と沈没している艦船の位置図面
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真珠湾
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<353機の日本軍機> 15分間の映像は1941年12月7日、オアフ島上空に接近した日本軍飛行隊が午前8時5分、空母加賀から飛び立った九七式攻撃機が投下した800kgの爆弾がアリゾナ戦艦上でさく裂したのをきっかけに、5時間に及び行われた爆撃戦を映し出している。この時、戦艦アリゾナ・戦艦オクラホマ・戦艦ネバタを含め10を超すBattleshipを破壊し、フォード島にあるヒッカム空軍基地、スコフィールド兵舎等に壊滅的なダメージを与えた。ハワイの港を一瞬にして地獄絵に変えた戦闘の様子が迫力ある音声で大きなスクリーンに映される。資料映像で作成されたものであろう。ガイダンスは英語。 只、日本軍は、赤十字マークの病院船だけは攻撃しなかったと聞き胸をなでおろした。…今、日本の海上自衛隊の艦艇は真珠湾を通過する際、アリゾナに対して敬礼を行っているという。 <戦艦ミズーリ記念館>    エントランス看板
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主砲(16インチ砲)の前で
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指令室=調印式ではダグラス・マッカーサーが待機していたところ。
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この船はニューヨークの海軍造船所で1944年(開戦の3年後)に建造されている。1945年の2月硫黄島上陸作戦を支援、その後、沖縄上陸作戦を支援、その時、日本の特別攻撃隊の攻撃を受け、右舷甲板後部フレームを破損する、その時の破損跡が今も残されている。 8月29日、降伏文書調印式のために東京湾に入り、連合軍艦隊が見守る中ミズーリの艦上で、9月2日降伏文書署名式典の場となる。 Happoon Missile (ハプーンミサイル)12kmの射程距離を持つ対艦ミサイル
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日本側は、天皇及び日本国政府の全権に依り、重光 葵(まもる)外相梅津美治郎参謀総長が署名している。連合国側は連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、アメリカ合衆国代表、中華民国代表、イギリス代表、ソビエト連邦代表、オーストラリア代表、カナダ代表、フランス代表、オランダ代表、ニュージーランド代表が署名した。甲板のデッキに調印式の行われた跡にモニュメントが造られていた。これにより第二次世界大戦が公式に終結を迎える。 調印式のモニュメント
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降伏文書に署名する 重光 葵外務大臣
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ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官
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降伏署名文書
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零銭が攻撃し右舷後方にぶつかりゆがんだフレームが見える
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その後も朝鮮戦争に2度出動,1955年、一旦退役、2年をかけて最新設備に整えたミズーリは平成3年湾岸戦争に出動、最初のトマホークを発射した。翌年、退役、ワシントン州のブレマートンに係留されていたが、USSミズーリ保存協会へ寄付されることになり、平成10年6月、Pearl Harbor・フォードアイランドに係留され、一般公開されている。 2度の世界大戦で散った若い命、日本の神風特攻隊はよく知られているが、同じような過酷な訓練はどの国から参戦した兵士たちも体験していると思う。そしてまた、どの国の兵士も今生の最後の時に叫んだのは「おかあさ~ん」だったのではなかろうか。 ワイキキの海辺に押し寄せる波の音が、私には鎮魂のメロディを奏でているように聞こえた。 帰途、ホノルル空港を離陸して約40分後に日本の航空母艦赤城を中心に集結し、戦闘機が飛び立った場所の上空を通過するはずだ。 ハワイの旅を終えて私は考えていた。 この戦争に至る要因は多々云々されている。やはり、中心にあるのは領土と資源であろう。近代化を急ぐ当時の日本に原油のルートを絶たれたという。国益の名のもとに極東の小国世界を相手に戦いに走った、今、滑稽とか、愚かというのは容易だが青春真っ只中、マインドをコントロールされて散った若い命を思う。 せめて、世界で唯一不戦の「平和憲法」を持つ誇りを高く持ちたいと・・・。 65年後の今もすぐ近くに当時の日本と同じような国が現存している事実を直視しながら・・。