一枚皮ともの言う背中

         
 ヒト族は、頭の先から足指の先まで、一枚の皮膚でつつまれている。どこにもつなぎ目がなく、伸縮も自在だ。その一枚皮は、加齢と共に歪んでくる。「なくて七癖」というが、人は、長年の間に、負担の少ない楽な姿勢に傾いてゆく。

 この楽な姿勢が、体のゆがみをつくり、不調を招いていた。「仕事柄とか忙しすぎて」という逃げ道を用意して。私もその例にもれない。体の四肢の付け根が堅くなり、関節が自在に動かないことに気がついたのは、五十代の後半である。何気なく、両足で立った足の位置が左右で数センチずれていた。

 本来「一枚の皮膚」なのだから、体の前・後・左・右の長さがほぼ同じであるはずだ。いつからだろう。皮膚の内側にある筋肉や関節が硬くなり、委縮してしまっていたのは。その不具合を庇うために「他の場所が無理をしている」と整形の医師が言う。四肢の前後左右の長さが違ってくるなんて、若い時には、考えもしなかった。そういえば、ほとんどの作業は体の前側で行う。後ろ側でする仕事がない。敢えて言えば、背明きの服のファスナーを締める時だろうか。

 二足歩行のヒト族の姿勢が悪くなるのは、重力をうけた年数に比例する劣化で、仕方ないと諦めていた。しかし、使い勝手の悪い体型や痛みは困るのである。症状は、まず歩き方に表れるらしい。足首が堅くなると歩幅が小さくなる。膝が前に出て膝裏が縮む。腰が後ろに引け、肩が前にでる。巻き肩は、パソコン従事者やや事務系の職業に多いと聞く。一枚皮はいつか、Cカーブの猫背体型をつくっていた。健康診断で身長を測るたびに低くなっている。背中の椎間板の厚みが、加齢で減るからとモノの本に書いてある。それ以上に、原因は、姿勢が悪くなるからのようだ。

 自然な美しいS字カーブの背中が欲しい。
ヨガスタジオでインストラクターは「肩の力を抜いて・・」と指導する。「力を抜く」これが実にむずかしい。肩は、頭と腕の重さ合わせて十二キログラムを、常時支えている。手を上げる時に、数キロある腕の重さを感じないのは、肩にある複雑に交差する小さな筋肉が、頑張っていてくれたからだ。腕の裏表の一枚皮は、肩甲骨につながり、足の付け根はお腹につながり、股関節の動きは、腿の筋肉にストレートである。

 日頃ないがしろにしている、足裏の面積は人体の1%だ。たった1%で体重○○キログラムを支え、立って歩いて○○年。足指一本一本にも、大事な役目があったらしい。今更ながら、足指の一本一本を、丁寧にもみほぐしている。
外形にこだわる年齢は過ぎた。欲しいのは、「使い勝手のいい体」だ。手遅れかも知れないが、美しい背中に挑戦しよう、と決めた。

 放置して数十年、私の深層筋肉は、動きを忘れてしまったらしい。肩甲骨周りや骨盤周りの筋肉が堅くなってしまっている。姿勢と深くかかわるこれらの筋肉を、目覚めさせねばならない。エアロビックに加え、水泳、ヨガや太極拳のクラスで、少しずつ、筋肉をほぐしながら刺激を加えている。錆びついた関節を、しなやかに動かすのはそう簡単ではない。一枚皮に気がつくのが遅すぎた。

 「親もそうだったから、私は生まれつき体が硬いのよ」という人がいた。ほんとにそうだろうか? 誰でも、生まれたときにはフニャフニャして柔らかく、バランスが整っていたはずだ。年のせいや親のせいにしていては、美しい背中ははるかに遠い。
年齢より若くみえる中年女性が多い。若いイメージは、肌や体重だけでなく、その姿勢に追うこと大である。歩き方から、立ち居ふる舞いを左右するのは、背骨を支える背筋で、肩甲骨から広背筋を意識すると、自然とお腹の筋肉もしっかりしてくる。一枚皮の所以だ。よく「背に腹は代えられない」というが両方同時に意識することは可能である。

 数年前、ひとりでスイスのローザンヌを旅し、レマン湖畔を歩いた時のことである。瀟洒なロッジの椅子で、ひとりパイプをくゆらし、湖面を見ている中年男性に目が留まった。彼の背中が、自信と哀愁を醸し出していたからである。大きな仕事をやり遂げたあとなのか、一幅の「絵」になり記憶に残した。
とかく、「男は背中でモノをいう」とか「男は黙って勝負する」など男の後ろ姿は、かっこよく表現されることが多い。反してモノを云う「女の背中」は余り聞かない。女を三つ集めて「かしましい」と読むように、女性は口で充分にモノが言えているらしい。湖畔に佇む女性の背中に「天下国家」を憂い「仕事」を思う物語は見えにくい。さしずめ過去を引きずる生き様であり、人とかかわる悩みや恨みが見えてしまうのは、いにしえから受け継がれたDNAなのだろうか。

 冷蔵庫のパネルに触れただけで引き出しがスート出てくる。省エネのLED照明器具は、軽くボタンに触れるだけで点灯し、明るさも切り替わる。その昔、釣り下がった紐を引く時の小さな筋肉の出番がない。あらゆる電化製品しかり、リモコンのボタンや、タッチ操作で事足りる。ヒト族は、生活を営むために体を動かす場所を失くした。その分、スポーツ・ジムなどレジャーを兼ねた施設が大盛況だ。これを「生活の質が向上した」と錯覚していたのではと思う。エレベーター&エスカレータを多くの健常者が使い、階段で脚とお尻の筋肉を使うことを止めた。様式トイレが普及し、膝や腰を痛める人が増えた。筋肉は、使わないから使えなくなる。昔はなかった”運動不足”という病だ。別名、生活習慣病という。

かくして、便利過ぎる超高齢社会は、医療費に膨大な予算を計上する社会になった。 この現象に、どのTVチャンネルも、便利な機器の宣伝で占められる。自分で動かずに、機器に、メタボリック症候群を修復してもらう代物である。次次にモデルチェンジされた新製品が登場する。「贅沢」というコストをかけて出来上がった不具合体型を、さらに新たなコストをかけて解消するという、珍妙な現象である。どちらも、景気指標の「消費」としてカウントされ、GDPの統計要素になるのである。
IT革命が止まらない。この業界の進化が、人間の生活を、根底から変えたことは確かだ。何事も効率的になり、ヒト族の生活の質を変えた。一方、情報過多に翻弄され、情報の捨て所に迷っている。インプットしても、アウトプットができない。ストレスの蔓延で大切なコトやモノを失ったことも事実である。正常な精神と健康である。私は、やがて、席巻するであろうAIと5Gいう頭脳は、ヒト族の体型も一枚皮の比率も変えてしまうに違いない。何分、筋肉を使ってすることがなくなるのだから、大きな頭と細い腕と手、細い脚のヒト族が、自動運転の車で極上の笑顔で移動する。そんな夢を見た。

うつくしい背中に挑戦して数年、私に、疲れずに効率よく歩ける、それなりの姿勢が戻った。年々、劣化する細胞には抗えないが、わが肉体の可動範囲を狭めない工夫を続けていたい。一枚皮の小さな筋肉の悲鳴を聞く前に・・。日ごろ動かさない筋肉を、まんべんなくほぐしている。「ほぐす」という地味な作業が意外と効果的だった。
右利きの私が左手で、庭の雑草を抜いている。一%の足裏をいたわりながら。
あの日のレマン湖畔の男性のように、背中でものを言ってみたくて・・。 

家族の絆

コルマール(フランス)

社会問題の多くが、家族という最小単位のありように深く係わっている。
 困難に遭遇した場合、家族の絆がよりつよくなる。たとえば、自然災害、病気、災難、介護等である。特に経済生活の根幹を脅かしかねない事態とあればなおのこと、社会的にも運命共同体として対処することを求められる。


 自分をさらけ出せる場所が家庭である。あるがままに振舞え、疲れた精神の癒しどころで、かつ、憂さ晴らしの愚痴を聞いてもらえる人がいる。条件は、しっかりした家族関係が築けていれば・・・。


「絆」という動物をつなぎ止めておく綱も古くなったらすり切れてしまう。補強糸を織り込んで編み直しの必要。編みなおし作業、これが意外と難しい。お互いに「テレ」と「甘え」「不満」がゴチャ混ぜになってきちんとした話し合いが出来ない。


家族だからこそ分かり合えることがある。以心伝心、伝わったら微妙な修正を繰り返すのである。

キリマンジャロ

キリマンジャロ 1日目

いよいよキリマンジャロに取り付く。

 早朝、例の専用車で登山口のマラングゲート(標高1550m)へ集結。インフォメーションセンターはごった返している。現地チーフガイドとツワーリーダーが「登山手続き」を行う。一人一人の名前が登録されて頂上登頂の暁には、下山時に、ここで英語の「登頂証明書」(A4判)が発行されるのである。 売店で水を1.5リッター3米ドルで購入し、絵葉書を見たり、バッチを手に入れたり。
 
 私達に、ここで現地ガイド6名が紹介された。他にポーター30名クッキングボーイ2名の総員50名を超えるキャラバン隊だ。荷物は次の山小屋まで必要なものだけを自分が持ち、他の衣類等はすべてポーターに運んでもらう。ポーターは全員の6日間の食材や水、調理器具、食器類なども運び上げるのだ。

高く、すっくと聳えるユーカリの白い樹林が美しいマラングゲートだ。

 

マンダラ・ハット(2727m)ヘ・・ブナ・クスの樹林帯、大木の枝からたれるゴブリンモス、シダ類が茂るジャングルの中を歩き始める。約4時間の登攀。

 世界遺産に指定されているだけに、ゲートは厳しく管理されている。登山道も広く整備され、ゴミの類はない。ポーターは頭の上に10キロほどの荷物を載せ、うまくバランスをとって難なく山を登ってゆく。山から降りてくる人とのすれ違いも容易に出来る道の広さだ。「ジャンボ!」とスワヒリ語の挨拶言葉が交わされる。

私達のパーティーのトップを歩くのは現地ガイドだが、登るスピードが速い、1時間が過ぎても休憩がない。トレッキングと登山は違うようだ。今日は初日で4時間だが、明日からは標高3000mを超える、酸素が薄くなる中の6時間を歩くことになる。一瞬、大丈夫かと不安になる。やがて樹林帯を抜け急な勾配を登ると、緑色のマンダラ・ハットの屋根が視界に入った。いくつかの三角屋根のバンガロー風のキャビンが数棟建っている。中は4人から6人用で、二段式のベットにマットレスと枕がついている。周りの草むらに張られたテントも増えて、国際色豊かに登山者で賑わってゆく。

夕食までは充分に時間がある。メンバーはそれぞれ、着替えて洗濯したり、草むらに腰を下ろし談笑したり、寝転んだり・・・。そこへ現地チーフガイドピーター(50歳)が、樹林帯の方を指差し手招きした。ついてゆくと高い樹々の間をなにやら動物が動きまわっている。ブラック&ホワイト、コロバス・モンキー(Brack and White Colobus Monkey)という猿で、顔と背中の一部と長い房々した尾は真っ白だ。数匹が高い枝を渡っているが、地上から10mはある。枝の間に見え隠れしてカメラに納めるのは難しい。

夕食は同行キッチン隊が別の小屋(ハット)で調理したものを、ガイド達が共同食堂に運んでくる。食事時間はパーティーごとに調整されている。テーブルクロスを架けてしまえば、スペース確保という具合だ。私達のリーダーはキリマンジャロに31回という超ベテランガイド佐々木慶正氏である。現地に友人や知人が多く、何かと便宜を計ってもらった。スムーズな登攀・下山が叶ったのもその恩恵によるものと思う。

さすが赤道直下、高度2727mまで半袖シャツで登ってきたが、陽が陰ると急に気温が下がる。同行メンバーとも話し合う機会が増えた。お互いの山登り経歴や、この山に挑む決意などを話題にして夕刻の食事時間を待つ。食事は基本的にスープから始まる洋食だが、野菜が多く日本人好みに工夫されている。

キャビンに太陽光発電の裸電灯が一つあるが、発電の基盤が小さくパワーは弱い、点灯しないこともあるらしい。数十m離れたところに男女別の水洗トイレがある。ヘッドランプを手元に用意し、キリマンジャロ山麓、初めてのシェラフに潜り込んだ。

キリマンジャロ 2日目  ホロンボ・ハット(3720m)ヘ

小鳥のさえずりで目が覚めた。ガイドが容易してくれた洗面器一杯の湯を分け合い、洗面を済ませ手早く身支度をする。今日も次の中継地まで登攀するに必要なものとパック・ランチ(サンドウイッチ、ゆで卵、オレンジ、チョコレート、バナナ)、水1㍑を自分の荷物に入れる。今日は、高度を1000m上げ約20kを歩くことになる。うっそうと茂る樹林地帯を暫く登ると草原に出た。草原の向こうに前衛峰のマウェンジ(5151m)が、背後に雪を戴くキリマンジャロ(5895m)が見えてきた。眼下には東アフリカの大地がどこまでも広がる。

もう3000mを超えている、私の足は遅れ勝ち、後ろを歩くガイドのロッキーがpole pole (ゆっくり、ゆっくり)と励ましてくれる。どうやら私がラストウオーカーらしい。

色とりどりの高山植物が顔を出した。アフリカに注ぐ太陽の光はどのような色を創るのだろう。ルート脇の草むらから、よくカメレオンが出てくるらしい。

しかし、今の私は登るのが精一杯で、周りの景色や花々をカメラに写すゆとりはない。

マラングゲートのユーカリ

マラングゲートのユーカリ

休憩地でようやくグループメンバーに追いついた。ザックを下ろして水を飲む。水の補給は高山病予防の必須条件なのだ。のどの渇きとは関係なく呑まねばならない。今晩からは利尿剤も飲むことになる。

少し休んで元気を回復、カメラを手にする。低い丈の草原が広大な起伏の大地を覆っている。緩やかな草原帯に、一際大きく目立つのがジャイアントセネシオというサボテンの仲間(写真)だ。ユニークな姿はこの山を象徴する植物として忘れないだろう。

短い休憩を終えてスタート、ロッキーはまた、pole poleとにっこり笑う。彼は23歳で背が高く相当のイケメンだ。妻帯して子供は2人という。

タンザニアは英国の植民地時代を経ているから、英語教育を受けている。ガイドが出来る彼らは、英語を理解できることが条件のようだ。

7つの沢を越える度にアップダウンを繰り返す。下りはひとりでに足は早くなるが、登りになると酸素が欲しい。昨日、頂上を極めた登山家たちが上から下りてくる。ハロー! ジャンボ! コンニチワ! アニハセヨ!と挨拶も多国籍でパワフルだ。

ようやく今日の中継地、ホロンボハットに到着。仲間とは何分遅れたのかしら。荷物は既に届いてキャビンの部屋も振り分けられていた。

トリトマ

トリトマ

 

このハットはマウェンジ峰とキリマンジャロ主峰との間の広い南斜面の大地にある。最後の水場のあるハットだ。足元から見渡す限り広大な山陵だ、そのためだろう、富士山と同等の高所にいるという感覚がしない。下界からガスが昇り、雲が湧く。一瞬に視界が閉ざされたかと思うと数分後には陽がさし、展望が開ける。何やらいろいろの物語が聞えてきそうだ。

低酸素対策

「血流が悪くなるから、体を締め付けるものは身に着けない、指輪も外す、水をたくさん飲むこと」とリーダーからの指示が飛ぶ。低酸素域では多くの事故が常時発生しているらしい。経験豊かなリーダーの言葉は絶対だ。

パルスオキシメーターという計器がある。人差し指を差し入れて血流の酸素取り込み状態と心拍数を計るものだ。私は80%でグループメンバー中最低の数値だった。このハットで明日も高度順応することになる、リーダーは特に心配しなくても・・・という。とにかく水を飲む。しっかり食事を取る。そしてよく眠る(体を休める)ことだ。ジャイアントセネシオとキリマン

ロッジの食 

キッキン隊が作る食のメニューはバラエティに富んでいる。スープ・パン・チキン・パスタ・ジャガイモ・ニンジン・パプリカなど、スパイスを効かせたものが多いが、味付けにさほど違和感がない。よく出されたのが温野菜とか野菜のスープだ。低酸素で胃腸が調子を乱す人が増えるのは常のことらしい。食慾減退は危険信号のひとつだ。高度を上げるごとに消化の良いもの、食材のバランスを考慮されていた。

朝はパン・スープ・ソーセージ・生野菜・お粥・梅干・味噌汁・コーヒー・ミロ・などなど・・・。日本から別送で送られた嗜好品、日本茶・各種ふりかけ・味噌汁・お茶漬けの素・海苔・昆布茶・マヨネーズ・バルメサンチーズなどは、弱った胃にも納まりが良かった。夕食のデザートには甘いモンキーバナナ・スイカが良く出た。

食事が済んだらもう寝るしかない。蓑虫のような気分で2日目のシュラフに潜り込む。携帯懐炉をいくつか入れた。情報から閉ざされて5日目、毎日が初体験の連続、この非日常が新鮮なのかも・・。夜が更けるが眠りが浅い、ヘッドランプをつけて30m先のトイレに向かう。ゆっくり、ゆっくり、足元の岩につまずかないように・・。深夜2時、外は以外に明るい。頭の真上に上弦の月が・・ピンポン玉のような星が輝いていた。

4200mへ高度順応日

水とカメラと貴重品のみを持って、小高い丘の上にあるゼブラロック(シマウマ模様の岩)まで500m高度を上げて順応する日だ。ここも皆より遅れながら登った。今日も後ろはロッキーだ。私が度々要求する休憩にもにこやかに「OK」と応じてくれる。「2日後のウフルピークまでは無理かもしれない」と言うと「kimiko ノープロブレム」「負んぶして登る」と身振り手振りで冗句を云う。休憩しているメンバーにようやく追いついた。リーダーは私に「皆に追いつこうと思わなくてもいいからね」と言い残してスタートした。箱根駅伝の繰り上げスタートを思い出す。マイペースで亀の歩み、pole pole.で4250mに立てた。

ここからの展望は圧巻。東に巨大な円錐形のキリマンジャロ主峰、西に荒々しい男性的な岩山のマウェンジ峰。山をバックにシャッターを押してもらう。

どうも私にはキリマンジャロのあの白い氷河が岩に載っかった杵つき餅に見えてならない以前の絵葉書や写真に写っているのは、もっと幅広く下に長い氷河だからだ。「あと20年以内で氷河は消えるだろう」とは学者の意見だ。

キリマン(山)ジャロ(輝く)がその名のごとく輝きを失ったとき、この山にアタックする登山家が減りはしないだろうか?そうなったら、このガイドやポーターと家族の生活は・・・。「温暖化」の一言で片付けるには重いテーマだ

ゼブラロックの上で暫く休む、ここでぼんやり過ごしただけで、体は高度に慣れ、順応メニューを消化したことになるらしい。草原の別ルートを昨夜のホロンボハットへ下山、私の足は下り向きにできているのか、信じられないぐらい早い。午後は夕食まで、思い思いに時間を過ごし高度に慣れる。小屋の傍にトリトマという珍しい赤く長い花が咲いていた。(写真)

夕刻、パルスオキシメーターは87%を示していた。7%の上昇している。リーダーは順調に高度に順応しているという。それでもグループ中では最低だ。明日のことだけを考えよう。

キリマンジャロ 3日目

昨日とは別の傾斜のゆるい登山道を歩き始める。1時間余りで、最後の水場(last water point)に到着、ここから上はポーターが運ぶ水が頼りになる。

トイレ休憩場所だが私がたどり着いたときには、メンバーは休憩を終えてスタート準備だ。また、また、繰上げスタートだ。

やがて、ザ・サドルThe saddleとよばれる砂漠状大地の真ん中に一筋の道が現れた。ホロンボハットの風景②キリマンヘの道マンダラハットへ

キリマンジャロが噴火したときの火山灰大地の道だ。周りは砂地に大小の石が転がり込んだ風に見える。短い草が処どころに生えている。

数キロはあるだろう、遥かにキボ峰が鎮座まします。その峰に向かって一直線に延びている。そういえばこんな景色をどこかで見たような気がする。一瞬に車で通過する映像だったが・・。いま、目の前に現れた道は、私がこれから歩いてゆく低酸素の道なのだ。

この道も私は最後尾を歩くことになる。難なく歩けるはずの平坦に見える緩やかな登り道だが、空気が欲しい。既に4000mを超えている。今日のラストガイドはクンダサイという40歳の小柄で穏やかな男性だ。麓のモシの街に住んでいて子供が5人だという。

How many wife? と聞くとOnly one . と笑う。この国では一夫多妻が認められているがお金持ちの特権である。

こんな冗談を言いながら、私の前になり後ろになり歩調をあわせてくれる。冷たく強い風に吹き飛ばされそうになる。岩の陰で防寒雨具を身に付けたが、ファスナーや紐がうまく処理できない。冷たく痺れた指先が思うように動かないのだ。クンダサイが手伝ってくれた。高山病の発祥か?ナサケない!

6時間の予定コースだが、歩けども、歩けども果てしなく続く一本道。後ろからポーター達が頭に大きな荷を載せて、pole poleと声をかけサッサと追い抜いてゆく。何人かの登山者にも追い抜かれた。グループメンバーはとっくに見えなくなった。

クンダサイが「ランチにしよう」と風除けになる岩場で足を止めた。私の胃袋は働くのを止めたらしい。全く食慾がない。オレンジジュースだけ胃に流し、パック・ランチはクンダサイに差し上げた。少しでも身軽になりたい。

How many time to gibo-hut by my food ?  と訊くとTwenty minute.と答える。遠くハットの屋根が見えているが、とても20分では無理とわかっている。美しい「うそ」と知ってもやはり嬉しい。私は「クンダサイ start  go!」と、大きく息を吸い、カラ元気を搾り出して歩きだした。4時間以上歩いた。高度はもう4500mを超えているはず。初めて体験する世界だ。もう既に私の体にいくつか症状が出ているが、これからどんな反応を示すのだろう。

キリマンジャロ登頂・体験記 幻のウルフピーク

http://kimiko-world.jp/ジャイアント・セルシオ

アムステルダム駅舎

アムステルダム駅舎

キリマンジャロ登頂・体験記      2006.02

幻のウフルピーク    キリマンの雪 06.年2月15日、午後2時。私は初めて体験する標高4800m、キリマンジャロ山頂まであと1000mを残す地点の山腹にしがみついていた。深い呼吸を繰り返すも、わが心臓と足はもう登ることを拒否している。

 さっきまで見えていた仲間たちは岩稜の裏に隠れてしまい、視界から人ひとり見えない。キボハット(最終基地4703m)から200mの高度順応時のこと。今は、現地ガイドも付いてきていない。「いったい私はこんなところで、何をしているんだろう」と考えていた。

 聞えるのは荒涼と鳴る風の音だけ。「静寂」とはこういうことを云うのだろう。風が上空の雲の塊を忙しく動かしている。雲の切れ間からポッカリ青い空が・・・。空ってこんなに青かったかしら?

 ここは東アフリカ、世界一高い火山、キリマンジャロのピークを見上げる。その目を遥かに歩いて来た下界に移す。「広くて、大きくて、高いなア」ふと、私を拒否しているピークも、大地も独り占めしたような錯覚に見舞われた。

 キボハットに下りたらリーダーに「明日のアタックは止めます」と告げよう。ここのハットに一輪車のタンカーが置いてある。低酸素で動けなくなった人を載せ、麓のモシという街の病院に移送するものだ。私はここで壊れて一輪者に乗るわけにはゆかない。生きて戻らねばならない。どうやら思考力はある、頭はまだ高山病に冒されていないらしい。 

 低酸素の状態で私の肉体はどういう反応を示すのだろう、醒めて観察する。高山病の発症は人によって頭痛、吐き気、発熱、下痢、倦怠・眠気とまちまちらしい。

私のはまず、胃袋が働くのを止めた。全く食欲がない、唇が紫色(チアノーゼ)になり、指先が思うように動かない。心臓の鼓動だけが早い。これでは常時、有酸素運動(エアロビクス)をしているようなものだ。

 赤道直下、南緯3度に位置しながら、頂上に雪が降り氷河を載せる世界一高い火山と、コーヒーブランドで知られるキリマンジャロ(5895m)、に挑もうなんて無謀なことを考えたのは数ヶ月前のことだった。

それはいくつかの偶然が重なり、あれよ、あれよという間に具体化していった。「小林さんの脚ならキリマンジャロに登れるかも知れないよ」と某登山ガイドの一言。

 それは屋久島、宮之浦岳・縄文杉縦走を終えたときだった。「ええっ!」とびっくりしながらも半信半疑。以来、全く考えもしなかったこの山が妙に気になっていた。頂上に万年氷河を載せ、大噴火口があるという。その氷河が「年々小さくなり、あと20年は持たないであろう」とは学者の言。東アフリカの温暖化を、わが足で取材したいという思いと、今しか出来ないという「加齢との競争」が大きな理由だ。富士山と奥穂高岳程度の経験しかない私が、6000m近い低酸素地帯に耐えられるとは思えない・・・登れるところが私の取材限界と割り切り、ツワー催行会社に事情を話した。

 ともかく、東京医科大学エベレスト高山医学研究所に、循環系、換気系、抹消血、電解質、尿、胸部X線等20数項目の医師による診断書を提出することになった。

結果は「特に異常は認めません」との連絡があった。「ラッキー」と小躍りした。来年ではもう自信がない、決行を決めた瞬間だ。同時進行でビザの取得を進め、ツアー催行会社から増員が許可され実現の運びになった。広島で3回の低酸素訓練を受けた。簡単に頂上に立てるとは思わなかったが、指示とおりの登頂用の装備は準備していた。

タンザニア入国

2月9日、日本を発ち、オランダのアムステルダムで一泊、タンザニアのキリマンジャロ国際空港に着いたのは翌日の夜になっていた。2日かがり21時間のフライトである。

満席のKLM機から降り立ったのは、日本・欧州・アジア・アフリカ・アメリカと多国籍人種である。さすがに登山スタイルが目立つ。ここは国立公園内にある国際空港なのだ。

専用車に分乗しホテルに向かう。夜も遅く遠方の景色は見えないが、道路の脇をマサイ族とわかる人が歩いている。彼らは背が高く顔が長く姿勢がいい、頭上に荷物を載せて運ぶからだろう。

 1時間半、車はスピードをあげて、サバンナの集落をいくつか過ぎた。舗装されてはいるが信号がない、スピードを抑えるために、ところどころに盛り土をしてある。乗り上げるたびにガクン・ガクンと体が上下する。気温30度、湿度が少ないのでさほど暑く感じないが、窓の隙間から入ってくる、かすかな香りはサバンナの匂いだろうか。

オランダで着こんだ上着を脱ぐ。乾季の今は雨が降らないから、乾いた風が砂埃を運ぶ、ネパールのカトマンズと似ている。

同行メンバー

メンバーは北海道から熊本までと各地からの参加者14名(男性9名、女性5名)、年齢は40代-70代だが60代が大半。スイスのマッターホルンに登頂した方、数十年かけて各地の名峰を制覇した方、地域の山の会で活躍する方、毎日、山へ登り訓練を積まれた方々でそれぞれが重厚な山男・山女の兵ばかり。成田から5名とガイド兼ツワーリーダー、関空から9名がオランダのアムステルダムで合流した。ここで同行者の初顔合せである。

私は奈良から参加された女性Oさんと同室になった。豊かな登山経験を持つ薬剤師の彼女とは、直ぐに意気投合した。何かと助けあって最後まで良い旅ができたことに感謝している。

訃報{彼女はキリマンジャロから帰国4日後、友人と冬の平山系の蓬莱山に登り、道に迷い遭難し帰らぬ人となった。ウフルピーク(5895m)登頂を果しながら、1000mの雪山で倒れるとは残念でならない。7月にはモンブラン登頂を計画しておられた。100名山はもとより、日本中の山を熟知されていたベテランでした。合掌}

 

世界の山旅 NO7 インカ帝国の都クスコ

クスコは11~12世紀頃に、海抜3400mの高地に建設され、太陽神を崇拝するインカ帝国の首都として栄えた。「クスコ」とはケチャ語で「へそ」という意味である。インカ帝国は現在のコロンビアからチリにかけて南北5300kmもの範囲に亘って栄えていたといわれる。クスコはそのほぼ中心「へそ」に当たり、多くの人々が地方から集まってきたという。大帝国を築いた人々には、まさに世界の中心地、宇宙観の中心との思いがあったかも知れない。 しかし、16世紀になるとスペイン人の征服がクスコにも及び、インカ帝国はたちまちにして崩壊する。征服者たちは、太陽の象徴である黄金で彩られた神殿や宮殿を破壊し、金銀を手当たりしだい略奪した。征服後、インカが築いた精巧な礎石の上に、スペイン風の教会を建設していった。インカ時代の美しい石組みと、スペインのコロニアル風の建築物が融合した現在のクスコには、一種、独特な雰囲気が漂う。 インカ帝国の石材建築技術を語るとき、クスコの12角の石」ははずせない。カミソリの刃一枚も通さない」という評判でよく知られている。それはアトゥン・ルミヨク通りの石の壁の一部としてはめ込まれている、比較的大き目の一枚だ。12の角に切られそれぞれの角が、四角の石とぴったりと寸分の隙もなく積み上げられているのだ。楔(くさび)も接着剤も使わず、何世紀もの間、びくとも動かずに残っている。なぜこんな複雑なことに力を注いだのか?・・・これぞインカびとの美意識とロマンの証なのではないだろうか。そして後世に残した偉大なメッセージのような気がしてならない。さて、何を受け取ればいいのか。実に痛快だ。
12角の石

12角の石

  サクサイワマン遺跡 クスコから車で30分ほどの所にサクサイワマン遺跡がある。サクサイワマン もとはインカ帝国が、支配下にあるアマゾン部族の反乱を想定して、砦として築いたという説がある。実際には逆にクスコを占領したスペイン軍と戦う、戦場となって行くのだが・・。 遺跡の頂上に立つとクスコ市街が一望でき、ここがクスコを管理する重要な拠点であったと分かる。巨大な石を三層に積み上げて造られた遺跡や、ジグザグに造られた城砦、 広場の西側に連なる巨大な石壁がある。高さ9m、推定360トンと云われるこの巨石はどこから、どんな手段でここに据えられたのだろう。ここでもインカ人の高い技術に舌を巻く。 と同時に、このために費やされた膨大な時間と労働力と犠牲者はいかほどなのか? そして、これを成しえた支配者のエネルギーは如何に?と想像を逞しくする。 この遺跡の下には、クスコ市街につながる地下道が迷路のように掘られているらしいが、誰も通過した人はいないとか・・。 いま、サクサイワマン遺跡は市民の公園になり、クスコ市民の憩いの場になっている。毎年、10万人が集まるという、インティ・ライミ(太陽の祭り)が行われるのもこの広場だ。 今日も、明るく晴れて子供達や観光客がのんびり散策している。草原の草いきれの中に佇んで、ガイドの説明を聞きながら、この地が何世紀にも及び、経験した侵略と覇権を競う紛争と政体交代の歴史に思いを馳せてみた。 広大な遺跡の中をみんなでゆっくり歩いた。高山病の兆候が出て、しばしば休みながら歩く人もいる。3400mの高地に君臨するレンガ色の屋並みと夜景の美しいクスコの都だった。   <モホス文明 第5の文明か?> 人工衛星からの映像が捉えたのが、秘境アマゾンの巨大地上絵と北東を向いて並ぶ2000個もある四角い湖の発見だ。トリニダードから35kの地、プレ・インカ時代以前の「モホス文明」の存在が今、ポリビアと日本の共同調査隊で明かされつつある。3年間の調査許可を得て、2005年8月に第一回の研究チームが現地を探索している。パンチョ・ロマといわれる居住区で、3000年前の地層から人骨・土器が出土している。 四角い湖は、高度な土木技術で掘られていた。水深110cmの人工湖であるらしい。魚の養殖に使われたと推察されている。 この文明を築いた人種が忽然と消えるのが12-13世紀といわれる、というのは、800年前インカ帝国の出現と符号する。マチュピチュの文化の原点がこのあたりに遡るのかもしれない。大いなる謎であり、興味は尽きない。どうやらこのあたりに黄金伝説を説く鍵が・・・。 謎が謎を呼び、壮大なアンデスのロマンはいやが上にも高まる。解明が待たれるような、先に延ばしたいような・・。  

世界の山旅 NO 6  人の社会 ナスカの地上絵

インカひとの残した石の道

インカひとの残した石の道

ともあれ、ここに確かな「人間の社会」があったのは事実だ。敵に備える強力な団結組織が出来ていたであろう。太陽神の神殿を中心にした社会に違いないが、そこには同時に富の蓄積から起きる紛争や犯罪も、権力や更迭にまつわる愛憎もあったと思う。 物流や経済の仕組みや家族の構成はどうなっていたのか、女性が高い地位で活躍した形跡があるという。リャマ、アルパカを飼い、織物や染色も担って食材を工夫する様子までが彷彿と浮かぶ。既にサイフォンの原理が利用されていて、石で作った潅漑設備があり、標高2400mの山の斜面を利用した段々畑に農作物も豊かだったらしい。農業試験場のアンデネス(段々畑)まであり、高地に強い作物が研究されていたというから驚きだ。 どこかから子供達の歓声が聞えてきそうな・・・。限りなく想像力を刺激する石の都だ。 現在マチュピチュ遺跡は、ペルー観光の目玉であり、インカ文明の石の都市が完璧に近い形で残している奇跡的な遺跡と云われている。 後世、「失われた都市」に眠っているはずの莫大なインカの財宝に強い関心を持って、多くの探検隊が、ビルカバンバ山群の奥深くに入り探したが、再び生還しなかったという。マチュピチュの街ウンニャワンヤ遺跡③ 消えた財宝の行方は今も謎である。だからこそ世界の観光客を呼び寄せるのであろう。 大地に残る古代のメッセージ ナスカの地上絵 リマの南約450㎞、果てしなく続くパンパと呼ばれる、乾燥地帯に描かれた謎の地上絵。紀元後、約800年頃に栄えた「ナスカ文化」時代に描かれたというこれらの絵は、直線や幾何学図形、動物、魚、虫、植物などさまざま。上空からでなければ分からないほどの巨大な絵を残した理由は? ナスカ文化時代には、高度な技術と豊かな絵心を持った人たちがたくさんいたと考えられる。その証拠に、ナスカの織物はプレ・インカ文化のなかでもとりわけ美しく、出土した土器に描かれた抽象画にもそれが伺われる。 この地上の謎の絵は1939年にアメリカ人のポール・コソック博士が飛行中に発見して以来、自然科学者や考古学者の注目の的になり研究者は多い。地上絵は何を意味するか誰がいつ何の目的で描いたのか、さまざまな仮説が立てられている。真相は謎を秘めたまま、いまだ定説はない。故に人々の好奇心はいやがうえにも高まる。 私たちはセスナ機に分譲し、イカという砂漠の町から飛んだ。ここでもペルー時間、随分待たされて、やっと空から地上絵を目の当たりにした。12人乗りのセスナ機は軽やかに飛び立ち、アンデスの山と砂漠の起伏と、風紋状の奇妙な地表のパノラマを見せてくれた。 パンパの沙漠を140km飛んで、地上絵の上空に着いた。 パイロットは片言の日本語で「ミギ、ハネノシタ、サル、ワカッタ?」と大声で教えてくれるのだが、さっぱりそれと判らない、やたらに砂漠の風紋のようなものと、線ばかりが目に飛び込んでくる。ビデオで見たような形の絵が探せない。すると機体は大きく右に傾き、左に旋回する、たちまち左に傾き右に大きく旋回する、両窓側の客に見せるためだ。内臓がグニャグニャに揺すられ、備え付けのビニール袋を使う人も数人。私は左側下だけを見ていたが気分はそう良くはない。ようやく、ハチドリ、クモなどが薄く視界に入った。目が慣れないとそれと解からない、それほど薄くかすかにしか見えない。カメラを向けるもうまく写し取っているかどうか。写真はあきらめて、わが眼を見開きビデオで見たよう図形をひたすら探していた。 雑誌やTVの鮮明な画面は、ヘリコプターで近くにせまり、静止画像が取れる特別の装置が使われているらしい。とはいえ、このようなロケーションの中に、こんな風に描かれていたとは想像外であった。 ほとんど雨の降らない標高620mのパンパの乾燥大地、その表面は数千年の間、太陽に照らされて酸化しうす黒くなっている。その薄黒い小石を、高さ10cm,幅20cmを除いて出来た白い砂の溝が、線や図形のようになっている。これが地上絵だ。いずれも、一筆で描かれているのも特徴で、 研究者達はいろいろの仮説を説いている。太陽を利用したカレンダー説、天体観測説、雨乞いの占い説、宇宙人説など・・。 最近のNHKの番組では、これらの絵は水に関係するものが多いという。特に滑走路のように見える5キロにも及ぶ幾何模様は、延長線が指し示すセロブランコ山からの伏流水の水路だという。これらの絵は、天空の神に見せるために捧げられたものだと報じていた。 また、30年以上単身でこの地で研究した、ドイツのマリア・ライヘ博士(女性)は説く。主な絵は星座の12宮を示していて、農業に利用していたという説である。大きなサルの絵が「Osa Major」の星座と完全に一致することが判明し、数学的理論の立証もライヘ博士自身が行ったという、このサルの絵には、渦巻き上の尻尾と腕があり、手の部分では、片方の手の指は5本で、もう片方は4本、ナスカの人々はこのサルの絵によって、一年の四季や、川の水の干満を知り、農作業に活かしていたというのだ。 不毛の大地に生まれたナスカ文化は、太陽と水と星座と月と、やはり天体、自然崇拝の色が濃く、宇宙サイドの考え方がベースになっていたようだ。  

世界の山旅 NO5 空中都市 マチュピチュ

6時間余り歩き「太陽の門」に辿り着く。ハッと息をのみ呆然と見つめた。なんと眼下に突然、石の都市が現れたからだ。尖ったワイナピチュ山(2690m)とマチュピチュ山(3000m)の間の稜線上に、その街は静かに鎮座していた。山裾からは全くその存在を確認できない。だから「空中都市」とも呼ばれている。この遺跡の総面積5k平方m、その半分は整然としたアンデネスと呼ばれる段々畑だ。ここでトーモロコシ・ジャガイモ・コカ・トーガラシなどが栽培されていたという。西側の市街区は神殿や宮殿と居住区に、東側は農耕地区に・・。周囲は城壁で固められている。尖った山の周辺は断崖、はるか下に見える渓谷を流れるウルバンバ川アマゾンの上流になる。流域は密林に覆われたジャングルだ。

雑誌やTVで得たイメージからは、このロケーションは全く想像できなかった。

石を積み上げて見事な建造物を造ったのは、難攻不落の「要塞都市」という役割が伺える。12-13世紀頃、スペイン軍が押し寄せて、インカ帝国を征服しようとしていた。インカの人々はスペイン軍から逃れるために、または復讐の作戦を練るために、ここに「秘密都市」を作ったという。やがて、この地も危ないと知った16世紀半ば、秘密を保持するために、女性(太陽の処女)と歩けない老人を墓地に葬り、街を焼き払い更に奥地へ、別のインカ帝国を求めて忽然と去ったという。「失われた都市」とも云われる所以だ。その後、400年以上、人の目に触れることがなかった。

20世紀最大の考古学的業績」といわれるこのマチュピチュ遺跡の発見は、1911年にアメリカの考古学者、ハイラム・ビンカム(1875-1956)の出現を待つことになる。

彼がこの遺跡を見つけたときは、雑木や草に覆われ廃墟となっていた。樹木を切り開き、ようやく、石積みの建造物を目の前にした時には、既に莫大な財宝は持ち去られていた。 墓地からは、女性173体、男性23体のミイラと道具、工具、陶器が発見されている。

この遺跡に住んだ人間は、どこから来てどこへ消えたのか?未だにマチュピチュにまつわる多くの謎は、解明されていない。その後の研究で、クスコで見られるようなプレ・インカ時代(2000年前)に使われていた石と同じ建築様式が証かされている。楔(くさび)も漆喰も使わない完成度の高いインカの石造り建築技術は、ガイドの説明を聞くごとに驚きの連続だ。

太陽の神殿、陵墓、神聖な礼拝広場、市街地への門、水飲み場、見張り小屋、管理人住居、牢獄、聖なる岩、石切り場、天体観測所などが解明されている。また、貴族の住居地区と技術者の住居区、庶民の住居区、農耕地区とに分けられていたらしい。

 

 

遺跡の最高地点にインティワタナという高さ1.8mの日時計が残されている。石を削って造られていて、突き出た角柱は36cm、角柱の角は東西南北をさしていた。私たちのメンバーが持っていたコンパスで確認すると間違いない。太陽の周期も月の周期も熟知していたのだろう。冬至(6月)夏至(12月){日本とは逆}を知り、種まき・収穫時期を計算したらしい。水と大地の恵みと山にあった石を、最大限に利用している。余程の幾何学・数学・天文学・農業技術に長けた頭脳集団の存在が伺える。