一枚皮ともの言う背中

         
 ヒト族は、頭の先から足指の先まで、一枚の皮膚でつつまれている。どこにもつなぎ目がなく、伸縮も自在だ。その一枚皮は、加齢と共に歪んでくる。「なくて七癖」というが、人は、長年の間に、負担の少ない楽な姿勢に傾いてゆく。

 この楽な姿勢が、体のゆがみをつくり、不調を招いていた。「仕事柄とか忙しすぎて」という逃げ道を用意して。私もその例にもれない。体の四肢の付け根が堅くなり、関節が自在に動かないことに気がついたのは、五十代の後半である。何気なく、両足で立った足の位置が左右で数センチずれていた。

 本来「一枚の皮膚」なのだから、体の前・後・左・右の長さがほぼ同じであるはずだ。いつからだろう。皮膚の内側にある筋肉や関節が硬くなり、委縮してしまっていたのは。その不具合を庇うために「他の場所が無理をしている」と整形の医師が言う。四肢の前後左右の長さが違ってくるなんて、若い時には、考えもしなかった。そういえば、ほとんどの作業は体の前側で行う。後ろ側でする仕事がない。敢えて言えば、背明きの服のファスナーを締める時だろうか。

 二足歩行のヒト族の姿勢が悪くなるのは、重力をうけた年数に比例する劣化で、仕方ないと諦めていた。しかし、使い勝手の悪い体型や痛みは困るのである。症状は、まず歩き方に表れるらしい。足首が堅くなると歩幅が小さくなる。膝が前に出て膝裏が縮む。腰が後ろに引け、肩が前にでる。巻き肩は、パソコン従事者やや事務系の職業に多いと聞く。一枚皮はいつか、Cカーブの猫背体型をつくっていた。健康診断で身長を測るたびに低くなっている。背中の椎間板の厚みが、加齢で減るからとモノの本に書いてある。それ以上に、原因は、姿勢が悪くなるからのようだ。

 自然な美しいS字カーブの背中が欲しい。
ヨガスタジオでインストラクターは「肩の力を抜いて・・」と指導する。「力を抜く」これが実にむずかしい。肩は、頭と腕の重さ合わせて十二キログラムを、常時支えている。手を上げる時に、数キロある腕の重さを感じないのは、肩にある複雑に交差する小さな筋肉が、頑張っていてくれたからだ。腕の裏表の一枚皮は、肩甲骨につながり、足の付け根はお腹につながり、股関節の動きは、腿の筋肉にストレートである。

 日頃ないがしろにしている、足裏の面積は人体の1%だ。たった1%で体重○○キログラムを支え、立って歩いて○○年。足指一本一本にも、大事な役目があったらしい。今更ながら、足指の一本一本を、丁寧にもみほぐしている。
外形にこだわる年齢は過ぎた。欲しいのは、「使い勝手のいい体」だ。手遅れかも知れないが、美しい背中に挑戦しよう、と決めた。

 放置して数十年、私の深層筋肉は、動きを忘れてしまったらしい。肩甲骨周りや骨盤周りの筋肉が堅くなってしまっている。姿勢と深くかかわるこれらの筋肉を、目覚めさせねばならない。エアロビックに加え、水泳、ヨガや太極拳のクラスで、少しずつ、筋肉をほぐしながら刺激を加えている。錆びついた関節を、しなやかに動かすのはそう簡単ではない。一枚皮に気がつくのが遅すぎた。

 「親もそうだったから、私は生まれつき体が硬いのよ」という人がいた。ほんとにそうだろうか? 誰でも、生まれたときにはフニャフニャして柔らかく、バランスが整っていたはずだ。年のせいや親のせいにしていては、美しい背中ははるかに遠い。
年齢より若くみえる中年女性が多い。若いイメージは、肌や体重だけでなく、その姿勢に追うこと大である。歩き方から、立ち居ふる舞いを左右するのは、背骨を支える背筋で、肩甲骨から広背筋を意識すると、自然とお腹の筋肉もしっかりしてくる。一枚皮の所以だ。よく「背に腹は代えられない」というが両方同時に意識することは可能である。

 数年前、ひとりでスイスのローザンヌを旅し、レマン湖畔を歩いた時のことである。瀟洒なロッジの椅子で、ひとりパイプをくゆらし、湖面を見ている中年男性に目が留まった。彼の背中が、自信と哀愁を醸し出していたからである。大きな仕事をやり遂げたあとなのか、一幅の「絵」になり記憶に残した。
とかく、「男は背中でモノをいう」とか「男は黙って勝負する」など男の後ろ姿は、かっこよく表現されることが多い。反してモノを云う「女の背中」は余り聞かない。女を三つ集めて「かしましい」と読むように、女性は口で充分にモノが言えているらしい。湖畔に佇む女性の背中に「天下国家」を憂い「仕事」を思う物語は見えにくい。さしずめ過去を引きずる生き様であり、人とかかわる悩みや恨みが見えてしまうのは、いにしえから受け継がれたDNAなのだろうか。

 冷蔵庫のパネルに触れただけで引き出しがスート出てくる。省エネのLED照明器具は、軽くボタンに触れるだけで点灯し、明るさも切り替わる。その昔、釣り下がった紐を引く時の小さな筋肉の出番がない。あらゆる電化製品しかり、リモコンのボタンや、タッチ操作で事足りる。ヒト族は、生活を営むために体を動かす場所を失くした。その分、スポーツ・ジムなどレジャーを兼ねた施設が大盛況だ。これを「生活の質が向上した」と錯覚していたのではと思う。エレベーター&エスカレータを多くの健常者が使い、階段で脚とお尻の筋肉を使うことを止めた。様式トイレが普及し、膝や腰を痛める人が増えた。筋肉は、使わないから使えなくなる。昔はなかった”運動不足”という病だ。別名、生活習慣病という。

かくして、便利過ぎる超高齢社会は、医療費に膨大な予算を計上する社会になった。 この現象に、どのTVチャンネルも、便利な機器の宣伝で占められる。自分で動かずに、機器に、メタボリック症候群を修復してもらう代物である。次次にモデルチェンジされた新製品が登場する。「贅沢」というコストをかけて出来上がった不具合体型を、さらに新たなコストをかけて解消するという、珍妙な現象である。どちらも、景気指標の「消費」としてカウントされ、GDPの統計要素になるのである。
IT革命が止まらない。この業界の進化が、人間の生活を、根底から変えたことは確かだ。何事も効率的になり、ヒト族の生活の質を変えた。一方、情報過多に翻弄され、情報の捨て所に迷っている。インプットしても、アウトプットができない。ストレスの蔓延で大切なコトやモノを失ったことも事実である。正常な精神と健康である。私は、やがて、席巻するであろうAIと5Gいう頭脳は、ヒト族の体型も一枚皮の比率も変えてしまうに違いない。何分、筋肉を使ってすることがなくなるのだから、大きな頭と細い腕と手、細い脚のヒト族が、自動運転の車で極上の笑顔で移動する。そんな夢を見た。

うつくしい背中に挑戦して数年、私に、疲れずに効率よく歩ける、それなりの姿勢が戻った。年々、劣化する細胞には抗えないが、わが肉体の可動範囲を狭めない工夫を続けていたい。一枚皮の小さな筋肉の悲鳴を聞く前に・・。日ごろ動かさない筋肉を、まんべんなくほぐしている。「ほぐす」という地味な作業が意外と効果的だった。
右利きの私が左手で、庭の雑草を抜いている。一%の足裏をいたわりながら。
あの日のレマン湖畔の男性のように、背中でものを言ってみたくて・・。