その2 Little Bighorn Battlefield

Little Bighorn Battlefield (リトル・ビッグホーン古戦場国定公園) 1876年、インディアン連合軍アメリカ政府軍が,激しい戦争を繰り広げた、アメリカの民族戦争史を語る上で欠かせない場所だが、観光客はそう多くない。 ヨーロッパとアメリカの文化が衝突した象徴的な戦場として、アメリカの教科書にも登場する。「リトルビックホーンの戦い」の場。インディアンは、政府群に鎮圧され、以降、国有墓地と整備されている。 暫し見学・散策。  記念碑にラコダ族の酋長Crazy Horse (クレージー・ホース)のメッセージがある。 “We did not ask you white men to come here. The Great Sprit gave us this country as a home. You had yours .. We did not interfere with you .. We do not want your civilization.”  ”あなた方白人に、ここに来てくれと頼んでいない、この土地は神が私たちに与えたものだ。あなた方には、あなた方の場所があるではないか。我々はあなた方になんの干渉もしていない。我々はあなた方のいう文明など要らない。 「民族の誇り」に心打たれる。  時代も規模も異なるが日本の古戦場と重なる。日本の武士と同じように、戦場(Battlefield)に散ったインディアン戦士とアメリカ白人兵それぞれに悲しんだ家族がいたことを思いながら、果てなく広がるロケーションを写した。 Craxy Horseこの戦いの指揮したクレイジー・ホースを英雄として讃え、ここSouth Dakota州の西部、ブラック・ヒルズの山に巨大な記念碑が彫刻されている・・まだ未完成で現在も製作中、1998年には顔の部分が完成し、すべて完成すればクレイジーホースが馬に乗り、指をさしている姿で高さ170m、長さ195mと世界最大の彫刻になるという。              完成予想図  この彫刻はコルチャックと(1982年没)いう、私人の発案で造られている。連邦政府から支援を申し出たがそれを拒否し非営利団体に運営を任せて現在に至っている。  この彫刻についてはBlack Hillの神聖な山を傷つける行為だと反対論もある。    The Mount Rushmore  1870年、大規模な山火事で焼失した街がDead Woodとして復興し瀟洒な観光地になっていた。 ホテルもレストランも1階はすべてがカジノ(Casino)の店が並んでいる。                  ガソリンスタンド The Mount Rushmore(ラシュモア山国立記念公園)National Memorial Park、 サウスダコタ州キーストーンにある、アメリカ合衆国の成立、発展、開発を記念する建造物、公園の面積は1,278エーカー(5.17km2)1925年、国定記念建造物に指定された。 Wikipedia資料より、「政府から委託されたガットスン・ボーグラムは400人の作業員とともに、標高1745メートルのラシュモア山の白い花崗岩の露頭に、1927年から1941年10月31日まで14年間をかけて、60フィート(18m)にも及ぶ巨大な胸像を彫った。彫られているのは、アメリカ合衆国建国から150年間歴史に名を残す四人の大統領(ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルトとエイブラハム・リンカーン)である。ラシュモア山の岩盤は非常に硬質で、彫刻作業は困難を極め、ダイナマイトで砕きながらの作業となった。硬質な岩盤が選ばれた理由は、アメリカの象徴ともいえるこのモニュメントが長期にわたって風化しないようにという配慮からである。」 ビジターセンターや博物館が整備されている。プレジデンタル・トレイルが整備され,巨大な彫刻をカメラに収めた。南北戦争にかかわるリンカーンは南を、初代大統領ワシントンは出身地の西を向いていると担当のレンジャーが説明していた。  ワシントンは大農場主で奴隷を数百人使っていたことがあり、インディアンの末裔はワシントンに対する反感を持ち、この山より大きな彫刻をつくるのだと、クレイジー・ホースを造る理由にしている。 Buffalo Safari  希望者でジープに分乗し、Safari Tourに出かけた。ジープの座席にカウボーイ・ハット(Cowboy Hat)と黄色いチーフが用意されていた。サファリと聞くと数年前のタンザニアのサバンナのサファリを思い出すが、ここはアメリカ西部の国立公園内、ジープが走るのはアスファルト道路でバウンドすることもない。山の奥までバッファロー(パイソン)を追った。囲いの中で保護されているのは見えたがなかなか車の傍では見られない。日によって違いがあるらしい。 目的地の終点にはBarbecue Partyが準備され、プロのWestern Musicianが帆馬車の前でギターで歌って歓迎してくれた。  ロッキー山脈の気温は急激に下がり、ブランケットを借りて巻き付け、チキン・ポテトサラダ・煮豆・スイカ・コースローの料理を震えながら食べた。暖かいコーヒーのおいしかったこと。みんなが愉快に踊り、ユーモアたっぷりのジョークで盛り上がり日暮れの前に山を降りた。公園には通行制限時間がある。CDを15ドルで購入した。    サウスダゴダ州→ワイオミング州  バスは、サウスダゴダ州から再びワイオミング州に入る。  小さな町に小さな博物館があった。 西部開発時代を生きた人々の生活が見える。歴史をとどめる品々が残されていた。 Fort Laramie (フォート・ララミー)  現在は国定記念物として保存されている。 アメリカの西部の開拓とインディアン(ラコダ・スー族)との領土を巡る戦いが、百年以上続いたところだ。1834年に民間の毛皮取引の砦として設立されている。  その頃、この場所には猟師、毛皮商人、宣教師、移民、金探鉱、兵士等が忙しく動き回った所なのだろう。宏大なエリアに当時の名残をとどめる建物が残っている。 民族の誇り  米国政府はブラック・ヒルズの土地を押収し、裁判になり、一世紀後に、ラコタ・スー族が勝利をおさめる。しかし、金銭の受け入れを拒否、代わりに米国から自国の領土の返還を要求したという。ここは、後にポニーエクスプレス、オーバーランドステージと大陸横断電信システムの要所になってゆく。  茫漠とした平野が広がる。かつて、この地で繰り広げられた民族抗争の雄叫びや、馬の歪めの音が聞えそうな、木陰に腰を降ろして休憩した。         

American Parks Trail  旅の終わり

旅の終わり  アスファルト道路に落ちている枯れ葉が靴の底でパリッと砕ける。数週間以上も雨が降っていないのだ。滞在ホテルから私は荒野の様な草むらをパラソルで日差しを避け30分ほど歩いてきた。  枯草の中に丈低くサボテンが生きていた。すぐ傍になんと高嶺の花が咲いている。どこから命の水をつないでいるのだろう。確かにここは標高1600mの1マイルCityだった。その健気さが愛しくパラソルで強い光を遮断し夢中でカメラに収めた。  高い建物の類はなく、遥か遠くまで平原が続いている。 歩き疲れて木陰まで戻り一休みしながらメモを取っている。聞こえるのは飛行機の発着でもなく、人の声でもなく、高速道路の音だけ。耳からショパンを聞く。 一昨日の夜、10日間のINSIGHT VACATIONSの旅が終了した。 単独で市内ツアーを済ませた後、シャトルバスでこの空港ホテルに・・、2泊し明日は日本へ帰る。 デンバー国際空港は白いテントの様に見えるユニークな建物で知られている。遠くからはロッキー山脈をイメージした様に見えるからだ。アメリカ合衆国で最も若い国際空港で総敷地面積137km2は、商用空港としては最大と云われ、且つ12本の滑走路を可能にしているというから驚きである。  すべてのAir port ホテルはノンストップで車15分以上走ってところに建てられていた。 デンバー郊外の休日、私の贅沢な時間でもあり、同時に聊かの寂寥感も・・・。再び訪れることのない大地だから・・・。コロラド州旗とアメリカ国旗がはためいている。急に物音に驚いたのか鳥が集団で飛び回った。 グランドテトン国立公園  大型バスはひたすら荒野を走る。ユタ州→アイダホ州を通過してワイオミング州に入った。アイダホと云えばポテトで有名な州、1kmにも及ぶ長いコンテナを積んだ列車が走っていた。  バスはテトン山脈を西に見て、スネークリバー(Snake River )沿いにGrand Teton National Parkに向かう。途中にジャクソン湖畔で休憩、車で数時間走っても同じ風景が車窓を駆け抜ける。ここはアメリカ西部、ゴールドラッシュ・幌馬車・カウボーイなど西部劇映画に出てくるような景色が続く。              アイダホノポテト農園     ムースの角でできた公園のゲート       ティトン公園の夕焼け グランドテトン国立公園  斜面に氷河を載せたティトン山脈のピークは標高41978m、ロッキー山脈の一部になっている。7つの湖や渓谷があり夏から秋の初めは各地から避暑にバカンスに人が集まる。キャンプ場も整備されているリゾート地。  気候は半乾燥山地気候で最高気温は34度、最低気温マイナス43度にもなる。丁度今が短い紅葉の季節、針葉樹林の中に点在している広葉樹が黄色に色づいていた。 Float Trip Through オプショナルでスネークリバーをゴムボートで下った。ライフジャケットをつけて約1時間、水音を聞いて変化する山を見てカメラに収め、川面を遊ぶ小鳥を追った。 心地よい風に白い山と黄色の樹木に青い空と水・・・ゆっくり流れに身をゆだねてもう、言葉はいらない。 Custer State Parkモンタナ州の州都Billings  美しい湖から山火事の樹林帯を通過、モンタナ州南部の大農業地帯を走り抜け、CODYという町のBuffalo Bill Historical Center(博物館)を見学、この地域に住んでいた原住民(インディアン)の生活をリアルに展示してある。館内にバッファローや小鳥の声を再現している。狩猟民族のインディアンの暮らすアメリカ大陸は東西南北に広く、場所によって環境も食料も異なっていて、周りの自然環境に上手く適応し暮らしてきたと解る。灼熱の夏と厳寒の冬は移動して生活し,水をうまく利用していた。毛皮と道具や作物を交換したり,交易や医療に対しての知識も豊富だったと博物館の資料に記されていた。              考古学者の発掘調査          バッファロー(パイソン) バスはモンタナ州へ山を越えた。車窓の眼下には広大な針葉樹林帯、深い緑の中に黄色や茶褐色の紅葉が混じりあっている。高い山のヘアピンカーブを無事に降りてきたドライバーに車内から大拍手! 気温が高くなり一枚上着を脱ぐ。       荒野を走る鉄路・・農作物を運ぶコンテナ車列                天然ガス精製所   友人は「Kimiko Why are you take a picture such sights? 」と聞く。I need it

 Fort .Myers Up round Snake on my neck 蛇を首に・・・

Fort .Myers はGulf of Mexico(メキシコ湾)に面したフロリダ州南西部の観光リゾート地。数年前、私がアマゾンリバーやカリブ海へクルーズ船で出航したのもFort Lauderdale からだった。北米の地図で東下に指のように飛び出したフロリダ半島の大西洋側になる。ちなみにFortとは要塞の意味。 ヤシの街路樹が美しいこの街は別名パームシティとも呼ばれ、リゾート地として人気が高い。ビーチ近くには広いキャンプ場が整備されていた。まだバケーションシーズンには早く人も車も少ないが、数台の豪華なキャンピングカーが停車していた。 トーマス・エジソンが数々の発明をした別荘もここにあるという。また、レッド・ソックスはじめメジャーリーグのキャンプ地としても知られている。  Safari Tour爬虫類サファリツアー 今回、アメリカの旅行業者を通して予約したセントラル・フロリダEverglades Day Safariはジャングルの森の中にある湖をAir Boatで探検するツアーだった。鰐(Alligator)やフラミンゴの生息地で10名乗りのAir Boatはマングローブや葦やハスの花の間を難なく動き回る。カメラも自由に使えて実に快適だ。2~3mの鰐が湖面から頭を出して泳いでいる。近づくとボートの音で潜ってしまう、なかなか良いショットが撮れない。 蛇(Snake)を首に巻くはめに・ 私は爬虫類が嫌いである。幼いとき田んぼのあぜ道で青大将を踏みつけた記憶は鮮明で、トラウマは消えない。 この南フロリダ州にも山がない、Forest(森林地帯)がどこまでも続いている。 一時間の湖水探検を終えて資料室を見学。毒持つ蛇も多種類生息しているという。中に大きな東アシアのニシキヘビ(python)もいる。鰐・イグアナ・カメ・・・。ガイドはこれらの爬虫類の生態について説明している。順番に子供の鰐をタッチさせてくれた。恐る恐る握ってみると、その冷たさにぎょっとする。 次にパイソン(Python)という太くて長いニシキヘビの子供を連れてきてメンバーに首に巻くように促す。まさか?私は思わず後ずさり・・。家族連れなど順番に首に巻きつけて写真に収まっている。ダークブラウンと黒とゴールドカラーの長い動く物体がそこにある。 日本人は一人、ガイドはどうしても私に挑戦させたいらしい、私にカメラを渡すように促し、もう構えて待っている。凍りつくような気分とはこんな時を言うのだろうか。大和なでしこももう逃げられない。やるしかない! 覚悟を決める。ずしんと肩に首筋に重く載った、ひんやりしている。レンズはひきつった表情を写し取っていた。私の心臓は早鐘を打っていたのであろう。音を嫌って鎌首を背中の方にゆっくりと動かしている。得も言われぬ気分。低温体質は冬眠する種の常態なのだろうか。大仕事を終えたような気分で蛇を外してもらう。ホットすると何故か、嫌われるSnakeに憐憫を覚える。 My heart was big beating,my face was hardening Key Westへ               Gulf Of Mexico Ernest Hemingway (アーネスト・ヘミング・ウエイ) が愛した島、 マイアミの大西洋側から小島伝いに400km、車でのコースもあるがハリケーンの通り道、気象状況では危険な時もあると聞いている。 高速船で3時間半のKey Westへの旅を選んだ。Fort Myersの桟橋から約300人を乗せて出航した高速艇は34ノット(約時速50k)でGulf Of Mexicoを一路北米最南端の小さな島に向けて疾走している。 揺れがひどい。トイレに立つにも右に左に揺さぶられ、何かに捕まらなければ歩けない。外洋とは違う湾内だからこれほどの揺れは想定していなかった。3時間半は長い。はじめは本を読んでいたが、船酔いしそうなので眠ることにした。気分が悪くなりかけたとき、ようやくそれらしい島Key Westが見えてきた。 この島はもうマイアミよりもキューバに近くその昔、キューバ領だった。  期待して上陸した小さな島は、私がイメージしていたそれとは少し違う。桟橋から続く商店やレストラン街にはあまり興味がない。どこもいつか来た道で目新しくもないリゾート地になっていた。カリブ海の島々と変わらない。島内を観光電車で一通り見て歩く。この島の周囲は大西洋、カリブ海、メキシコ湾に接していて、ダイビングのメッカで若者の人気が高いらしい。 Ernest Hemingway (アーネスト・ヘミング・ウエイ)  アメリカの作家、元新聞記者でノルマンディにも出向いている反戦作家として知られている。The Southernmost pointの最南端の赤い碑がある。その先に広がるカリブ海をながめていると、ヘミング・ウェイの小説「老人と海」A Old Man and the Seaのイメージが浮かぶ。私も若い時に読んだ小説だ。他に有名な彼の代表作には「陽はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」などがある。今も本棚にある彼の全集を取り出してみた。もう一度読み返すにはあまりに文字が小さ過ぎる。     The Southernmost pointの最南端の碑 ヘミング・ウエイは住んでいた当時の家は、今でもペットの猫の子孫と一緒に、博物館として保存されている。入場料を払って中に入ってみた。  絵や本の他にも当時のカリブ海の生活や、その昔多くの海賊たちが活躍していた頃の資料の展示物があった。裏庭に4人目の妻が愛したという、100万ドルのプールも樹木に囲まれて残されていた。 晩年、飛行機事故の後遺症による躁うつ病でライフル銃で自殺している。享年62歳。彼が愛した猫は50匹もいたが、現在は農務省の管理のもと4匹まで許されているという。当時の遺伝子を持つ猫は観光客など我知らず、のんびりと寝そべっていた。 船酔い(Seasickness) 復路も高速艇を予約している。夕刻に出航した船からはメキシコ湾に沈む夕日が見られるはずだった。1時間も過ぎたころから、船の上下の揺れがひどくなり、まるで波乗りをしているような気分・・。乗客に異常が起きた。よろけながらトイレに立つ者、ゲーゲー吐き出す者、船内アナウンスは「トイレに行く人は乗務員がサポートするから知らせるように・・」と。しかし、周りを見回しても乗務員に知らせるボタンの類は見当たらない。そのうち、乗務員が笑いながら全員に白いペーパーバックを配りだした。いつものことなのだろう。ローリングはますます激しく絶え間ない。  私も気分が良いわけはない。常時、内臓が不随意に持ち上げられ揺すられている感じだ。体内臓器のインナーマッスル・トレーニングを間断なくやらされている感じ。この状態が後2時間余続くのである。ひたすら耐えて時計の針を見つめては肘掛に凭れ、目をつむっていた。広島から松山に高速艇を乗ったことがあるが、瀬戸内海の波とは質が違うと思い知る。メキシコ湾の夕日が落ちるのをチラッと見るも、とてもカメラを向ける気分ではない。船内のあちこちで吐き気を催した人がペーパーバックを使っている。使用後は椅子の下に置いておくと乗務員が集めて回っている。 2時間を過ぎたころ、私も酸っぱい水が口内にあふれたかと思うと、途端に吐き気を催しペーパーバックを使った。島では軽い食事だけだったので量は少ない。胃の中を空っぽにしてしまうと一応気分は楽になるがマッスル・トレーニングは続いている。このような強い、船酔いは初めてのことだ。それもメキシコ湾で体験するとは・・・。下船しても五臓六腑は頼りなくタクシーでホテルへ・・。 キリマンジャロの高山病も経験したが、山を降りればたちまち回復した。今度の強力な船酔いは翌朝まで残り食欲がない。 Gulf Of Mexico メキシコ湾は東西の幅が約1,500km、総面積は約160万 km²で、南の3分の1は熱帯に入る。最大水深はSigsbee Deepで4,384m。二大海流として黒潮と共に知られるメキシコ湾流はここを起源とし、巨大ハリケーンが頻繁に訪れることでも有名である。広大なメキシコ湾の大陸棚では1950年代から海底油田の開発が本格化、メキシコ湾岸油田として石油の一大産出地となった。2010年ルイジアナ州沖で起きたイギリスBP社の原油流出事故はまだ記憶に新しい。

ニューイングランド地域(USA)→セントラル・CANADA

帰 国 午前3時起床、ボストンRogan空港から→サンフランシスコ空港(5時間)、サンフランシスコ→関西空港(10時間40分)のフライト、関空から「はるか」で新大阪へ・・乗り継ぎ時間を含めトータル24時間で我が家に戻った。2週間にもなると私の胃袋が日本を恋しがる。 新幹線のぞみ」は新大阪を定刻に出発し、わずか1時間27分で広島駅ホームに滑り込んだ。今回は特にこの世界に誇れる新幹線の雄姿が誇らしくまぶしい。 アメリカからカナダのモントリオールへアムトラック(列車)で国境を越え、モントリオールからケベックにVIA列車で移動したからだ。 ボストン(マンチャスター州) 今回の旅はUSAの北東部(アメリカ発祥の地)ニューイングランド地域から、列車で中央カナダのケベック州のモントリオール・ケベックを列車で旅することだった。もちろん、蒸し暑い日本の夏を逃げ出すわがままな旅。 よく歩きまわった。私は旅を企画するとき、希望のエリアの航空券をWebで探し、次に現地ツアーを探す。ホテルは空国やダウンタウンからの距離も考えるが、周りに散策できる公園やリバーサイドがあるホテルを優先する。現地のバスで観光するのは大まかなガイドラインを把握するのに便利だが、車窓からでは写真は難しい,加えて、まず、記憶に残らない。足で歩いて見た景色だけが鮮明に思い出せるからだ。 ニューイングランド地域 USA東北部の6つの州、マサシューセッツ州、バーリントン州、メーン州、ニューハンプシャー州、コネチカット州、ロードアイランド州を指す。アメリカ発祥の地ともいわれる。英国植民地として早くから発達したところだからだろう。西にアパラチア山脈があり、東は大西洋だ。ちょうどバケーション・シーズンの今は、各地からの観光客と避暑にアメリカ各地からのキャンピングカーが行き交っていた。 ボストン(Boston)は、アメリカ合衆国北東部にある都市。マサチューセッツ州の州都。日本人にはボストンマラソン(瀬古選手が2度優勝している)やレッド・ソックスのホームグランドなどであろうか。格式ある古い街並みはヨーロッパのそれに似ている。イギリスの植民地時代を経て独立戦争の舞台になったところだからだ。 私はアメリカで最も古い公園といわれるボストンコモンチャールズ河畔のリバーサイドを歩いた。ちょうど土曜日で公園は家族ずれや観光客であふれていた。 同時にここは世界の名門校ハーバード大学(Harvard UVS)、マサチューセッツ工科大学をはじめ、60もの大学があり、学生の街ともいわれ、東のシリコンバレーとも云われている。ジョギングやボートを漕ぐ若者が実に多い。日盛りは気温は28度を超えているだろう、歩いていて汗ばむが湿度が低いので木陰は涼しい。地下鉄が整備され、どこまでも2$で行ける。 ハーバート大学(Harvard University) 6人の大統領、20人のもノーベル賞受賞者を輩出している世界の名門校。 Harvard UVSというメトロ(地下鉄)の駅を降りるとそこは大学の校門前になっていて、若い学生風の男性が観光案内のガイドブックを配っていた。 キャンパスに入ってみると写真で見た建物が目の前に・・・。現在この大学に在籍している日本人は5名という。かつてはもっと多かったらしいが、中国や韓国の学生に追い越されていると新聞で読んだ、そんなことを考えてビデオカメラを回していると、何やら中国語が聞こえてきた。目の前を20名ほどの中国人の若者の団体がガイドの説明を聞きながら歩いていった。 ここを卒業した著名な人物に現アメリカ大統領のバラク・オバマ氏やノーベル賞のアル・ゴア氏、ジョン・F ケネディ氏、ビル・ゲイツ氏など・・署名な日本人では皇太子妃雅子様、ノーベル物理学賞の野依教授が思い浮かぶ。 John・ F・.Kennedy(J.F.ケネディー博物館)同じRed Line のメトロでJohn・ F・.Kennedy駅に着いた。駅から無料のシャトルバスが出ている。 白亜と黒の近代的な建物が目に入った。周りにこの建物の景観を乱す物がない。青い空をバックに美しい。中に入るといくつかの映写室があり、彼の幼少時、高校生の頃、大学生へと成長過程の映像が流れる。次のブースでは政治家に向けての活動からニクソンと大統領選を争うところと各州別の得票数まで出ていた。ジャクリーンとの結婚の頃や彼女の衣装などまで豊富な展示品が並べられている。私が一昨年、訪ねたフロリダの「ケネディ宇宙センター」のブースに宇宙飛行士と並んだ写真の展示など。 私が最も印象に残ったのは、Kennedy大統領がダラスで暴漢に射殺された事件の第一報を報道している報道官の表情だった。「信じられない!」という虚ろな表情が画像にアップされている。知られざるアメリカの歴史の一断面に触れてボストンを後にした。 ボストンから車でバーモント州のバーリントンへ移動した。 バーリントンはシャンプレーン湖畔にある人口4万人ほどの街。バーリントン農業大学で知られている若者の街だ。豊かな緑の農場が続く、いくつかの歴史を刻む古い街並みを通過する。 シャンプレーン湖セント・ローレンス川とハドソン川を結ぶ淡水湖、180㎞、幅19㎞と長く伸びたアメリカで6番目に大きい湖にヨットが遊び、桟橋は観光クルーズ船でにぎわっている。このシャンプレーン湖をフェリーで対岸のカナダ国境に近いPlattsburgh(プラットバーグ)という街のホテルに宿泊した。 USA&CANADAレール事情 アムトラック(AMTRAK)USAの列車 NAFTA北米自由貿易協定(North American Free Trade Agreementの略称)というのがある。かつて私は「経済記事の読み方を講座」を開いていた4年前、幾度もボードに書いたなじみの文字だ。アメリカ合衆国・メキシコ・カナダが締結している、関税なしで貿易ができる協定のことだ。  そのことが先入観にあったので、国境越えはもっと簡単かと思っていた。これがとんでもない誤解と思い知らされた。NAFTA協定はあっても、ユニオン締結をしているわけではないのである。 国境の街Plattsburgh(プラットバーグ)駅にAMTRAKの列車が着いた。日本のようにプラットホームはない。係員が運んできた階段を使って乗車。スーツケースを収めて一安心。20分ほどで列車が停車してなかなか動かない。何やら放送があったがよく聞き取れない。フランス語?カナダ国境近くで入国審査があるらしい。カナダ国側の入国管理官(Immigration Officer)が各車両の乗客全員にパスポートの提示を求め、顔と写真を見比べている。何日間のカナダ滞在かと聞かれた。 3時間でモントリオール到着。 モントリオール(Montreal) 公用語がフランス語の街、人口780万人、フランス領だったとは知っていたが、現在も公用語で市内地図も店の名前もフランス語なので戸惑った。フランス語圏ではパリに次ぐ都市という。店のwindowにならぶ商品もヨーロッパフランス風・・。日本人には1976年に開催された夏季オリンピックで記憶に残る。スタジアムを写真に収めた。この大会で日本はレスリング・柔道や体操・女子バレーボールで金メダル9個を獲得している。ルーマニアのナディア・コマネチの体操競技10点満点は有名だ。 この町も早朝から、若い人に道を聞きながら歩き回った。 気温は30度近いが湿度は低い。 マリア大聖堂 ケベック州(Quebec) VIA Rail Canadaに乗車 モントリオールからVIA列車でケベックに向かう。 この特急列車の乗車券指定席は事前に取得していたが、なんと1時間前にチェックインをしなければならない。且つ、ホームに出るゲートが開くのは30分前、駅の構内に長い列ができる。カナダ国内の列車なのになぜ?と不思議。3時間でケベックに到着。 当然ここの市内観光地図もフランス語のみ。古い要塞が世界遺産に登録されている。起伏に富む古い静かな美しい街だ。フローレンスリバーサイドを歩いた。 秋にはメープル街道の紅葉でにぎわう街だ。国旗は楓のマーク。 楓の樹液から産出されるメープルシュガーが特産品。ほかに地下鉱石資源に富み、今はハイテク、ソフトウエア産業が盛んだという。 復路もVIAでモントリオールの駅舎のビルにあるホテルを予約している。夕焼けの街並みが美しい。このホテルにはFitness Centerがあり、最新式のマシーンが設置してあった。 ピンを差し替えて重量を変えるのでなく、すべて手元にメーターがあり、簡単に自由にウエートを切り替えられる優れもの。いずれ日本の市場にも入ってくるのでは・・。 翌朝、再びAMTRAK(USAの列車)でバーモント州(USA)に戻る。 車窓に緑の農園にトーモロコシの畑がどこまでも続いている。 やはり国境近くになると列車が止まって動かない。入国審査のための停車だ。事前に航空機と同じ入国カードを書いた。今度はアメリカの女性入国管理官(Immigration Officer)が乗車してきた。私のパスポートの出入国履歴を入念に見ていた。優に1時間を過ぎたが列車は動かない。乗客の不満の声が聞こえる。ある男性はバーリントンから飛行機に乗る予定があるらしい。 カナダもアメリカもG8に入る先進国である。 車社会にどっぷり浸かった石油依存の国を不安に思った。陸地に国境を持たない日本では考えられないこと。同時に頼りになる日本の新幹線を誇らしく思う。 当局はこの技術と運行ソフトを含めて販路の世界拡大になお一層の傾注すべきではと・・。 メーン州へ 車でメーン州の大西洋側にある、Acadia National park(アカディア国立公園)に向かった。 アメリカは広い国土に多くの国立公園を持っている。形容も広さも日本のそれとはスケールが違う。私が今まで訪ねたアメリカのナショナルパーク(NP)は、Grand Canyon NP, Yosemite NP, Red wood NP, Mount Rainier NPがあり今度で5つ目になる。 ビジターセンターで案内図をもらいラウンドしているバスを使って、ウオーキングコースを歩いて見た。いつかどこかで見た景色とダブル。バケーションシーズンの今、どこも家族連れで賑わっていた

サンディエゴ(San Diego)海軍(NAVY)基地

ロスアンゼルスから再び陸路でMEXICO方面に南下し、サンディエゴを訪ねた。20年前に団体ツァーでここに来ている。その時の美しいマリーナは、どこから見た景色だったのか全く思い出せない。           サンディエゴ市街地 高層ビル 120万都市の高層ビルが沿岸沿いに林立している。こんなに近くにアメリカ海軍の基地があることは知らなかった。                     イージス艦全景                  甲板のヘリコプターをズーム                   Soldier(兵士達)の像                戦艦の後尾にはためくUAS国旗 ・・ 原子力空母の停泊場所から,市街地までわずか半マイル(800m).24平方キロのサンディエゴ湾をはじめ、陸地部を含め全体で 約730平方キロ海軍基地には、太平洋艦隊の三分の一以上の 艦船が配備されている。6~14隻がここを基地にしている.  サンディエゴ湾の海底の土壌からは、海軍や艦船を修理する造船 所から放出された毒性の強いポリ塩化ビフェニール(PCB)など 大量の化学物質が見つかっているという。  原潜などが停泊する海底から は、自然放射線レベルの十倍のセシウム137を検出。古くなった軍用機の計器を大量に投棄した場所では、ラジウムによる汚染が深刻だと報じられている。   「そんな事態になればサンディエゴ市民の健康も、年間1500百万 人が訪れる観光依存の高い経済も壊滅状態に陥ってしまう。国民を 守るはずの核艦船は、今や私たちにとっては脅威でしかない」と 現地の識者は語気を強めている。 「原子力発電ならどこでも周辺住民への避難計画があるのに、海軍は これだけの数の原子炉が住民の身近にありながら、何も知らせよう としない」と続けられていた。  これはブッシュ政権時代への非難である。 そういえば、日本でも核を載せたアメリカ海軍の船が、佐世保に寄港したニュースが大きく報じられた事があった。   この度は原子力空母は見えなかった。NAVYの軍艦をカメラに納めた。ヘリや小型飛行機を甲板に載せているイージス艦の一種であろう。船のバックにアメリカの国旗がはためき、兵士が談笑していた。  この周りは公園になっていて、観光客も自由に入ることができる。灰色のいかめしい軍艦は、穏やかなマリーナのロケーションに相応しくない。 軍事産業はアメリカの機関産業である。空軍(The Air Force)、陸軍(The Army)、海軍(The Navy) これらの軍事力に裏打ちされた国威によって世界のリーダーに君臨してきた。  同時に多彩な側面を見せる自由な民主国家である。誰でも自由にモノが言える国、多国籍民族で成り立ち、その意味では懐の広い国とも言える。  昨今はアメリカ発の経済危機で低迷を余儀なくされている。加えて、世界の世論の目は厳しい。核廃絶に言及してスタートしたBarack Obamaは、どのようなかじ取りをしてゆくのだろうか。 TV画像宇宙の映像を鮮やかに映している。かつては夢、幻の世界だった宇宙に開発の手が伸び、間近に感じる事が出来る今日、「地球上の兵器や軍備は何故に必要なのか」?と・・宇宙の創造主は笑うであろうか。  駐車場の隅にホームレスの男性が毛布に包まって寝ていた。 高層ビル群の街を往来する人も車も何事もないように動いている。 訳もなく「危うさ」を感じてサンディエゴCityを後にした。 追記 CNNやBBCではほとんど日本のニュースを流さない。というのはそれほどに日本は平和なのだろう。ちなみに現在、日本にもイージス艦6隻が海上自衛隊の管理のもとに配置され、日本の海を守っている。 帰国の機内でもらったFINANCIAL TIMES(アメリカの日経新聞のようなもの)に鳩山総理が頭を下げている写真が大きく出ている。主見出しはThe spectre of stasis…停滞の状況と訳すのだろうか。脇見出しは 「政権交替後100日が過ぎたが、国民に約束したバブル崩壊後の低迷した経済対策でもがいている・・・」 Hatoyama Indeed,the prime minister’s reluctance to set a clear direction on such issues has fuelled suggestions that he is overly influenced by Mr Ozawa, who was his predecessor as DPJ president..... Many analysts sense Mr Ozawa 's hand in the prime minister 's reluctance to rein in his financial serviseces minister Shizuka Kamei a pugnaclous former policeman who heads the People's New party atiny DPJ coalition partner....... DPJとは民主党の立ち上げたリーダーススクール。 このニュースは昨年200912月22日のものだ。各国のプレスが流したニュースがこうして世界に発信されている。 明けて1月8日の今もこの状況は変わっていない。

Fall Of West North America

2009.9月中旬、関西空港からSeattle(Tacoma)に飛び North AmericaのWashington State(ワシントン州),Oregon State(オレゴン州)、とCalifornia State(カリフォルニア州)の一部を車で巡る旅に出た。11日間で2400kmを移動した。         Seattle City ボーイング社の本拠地であり、ワシントン大学では優秀なコンピューター技術者を輩出していると・・。他にもシアトルはマイクロソフト社・アマゾン社・スターバックス社の発祥の地でもあるらしい。 アメリカを代表するドライブコース101号線シアトルからカリフォルニアのロスアンゼルスまで、ダイナミックな太平洋のWest Courseを走った。いくつもPicture Spotに立ち寄りながらCresent City まで南下した。 景観はめまぐるしく変わる。深い湾に砂浜が見えたと思うと切り立った断崖に変わり、エゾ杉の林を抜けると、太平洋に大小の島々が現れる。景観の変化だけではない。遠くに薄黒い雲が見えたかと思うと、やがて濃い霧に包まれた。ライトを付け車の速度を落とす。数十分も走ると雲ひとつない青空にまぶしいほどの光が・・。サングラスをかけていると、1時間後にはまたワイパーを忙しく動かすほどのスコールがやってくるという具合だ。このコースはMelbourneのGreat Ocean Roadにも似ているし、ところどころ、日本の山陰海岸のようにも・・・ The Pacific Ocean 太平洋の彼方から大波が押し寄せている。 海岸に白く砕け散る大波、waveの高さは数メートルはあるだろう。まるで台風の時のようだ、が風は心地よく快晴だ。大きな岩に打ち寄せる音はいつも同じではない。山国育ちの私は海へのあこがれは格別で・・。いつまで見ていても見飽きない。 なるほど・・水が早く動くときには白く見えるのだと・・滝がそうであるように。 ハノン湾(ベトナム)のような景色が現れた。海の中に大小の奇岩がにょきにょきと見え隠れしている。カリフォルニア州とオレゴン州の州堺にはゲートがあって、なにがしかの質問を受ける。。「プラント(植物類)を持っているか?」と聞かれたらしい。         カリフォルニア州へのゲート Bridge(橋) 川や湾に架かるいくつもの橋を渡った。 どこもダークグリーンの鉄骨で囲われている。風除けのためだろう。私は屋根つきの橋を探していたのだが・・。 いつか読んだ本「マジソン郡の橋」はアイオア州の田舎にあるローズマン・ブリッジという屋根付きの橋であった。「マジソン郡の橋」 は、無名の作家が書いた恋愛小説。アメリカで450万部、日本で150万部が売れ話題になり、後にクリントン・イーストウッド主演・監督で映画化されている。私も本を読み、映画を見ている。中央アメリカのアイオア州とは随分離れている、このあたりでスイス風の屋根付きの橋には出会うことはなかった。     コロンビアリバーに架かる橋  オレゴン州とワシントン州のボーダー California State(カリフォルニア州) Redwood National State Park RedWood(アメリカ赤杉)はSequoia(セコイア)とも呼ばれる。 最長で2000年以上も樹齢を持ち、高さ120m・直径7mに達する地球上で最も高い木だ。 首が痛くなるほど上を向いてもてっぺんを見ることは出来ない。緯度、気候、標高などの条件から、レッドウッドは北カリフォルニアの海岸線沿いでしか生息できないとか。太平洋の影響で涼しくて湿気を含んだ空気が、乾燥した夏でも木々を潤している。公園の広さ315平方km、1980年に世界自然遺産に指定され、国と州の公園として保存・管理されている。長寿の理由は厚い樹皮に多く含まれているタンニンが害虫から守るのだという。 この広大な赤杉の原生林にトレイルウオーキング・ルートができている。がそのルートに入るには車で随分奥まで入ってからだ。所どころに、車が停車している辺りにトレイルロードの入口があるらしい。私も歩いて見た。どこまでも手つかずの原生林がまっすぐに直立して生きている。倒れた古木から2世が逞しく育っていた。日本の屋久島にある、樹零7000年の屋久杉には及ばないが、その広さと樹木の太さと高さには圧倒される。 University of Oregon Eugene City ここには一緒にドライブしている友人の友人、元University Of South Floridaの同僚(女性)が住んでいる。彼女も元Professor(教授)で現在74歳の退職者で、ここユージーン(Eugene City)に住んで5年目。高台に建つ白亜の立派な家でのランチに招待された。メキシコ風のスパイシーな冷スープをご馳走になる。白いパンタロンにパープルカラーのセーター、ブロンズの髪の美しいEurinaは、日本人の私を歓待してくれた。 食事の後、持ち合わせていた折り紙(西陣織模)で「鶴」を折って差し上げたら、たいそうな喜び様で・・。        オレゴン大学リバーサイド オレゴン大学キャンバス近くのリバーサイドの両側に数kmにも及ぶウオーキング・ロードが整備されている。たくさんの人が思い思いにジョギングしたり歩いたりしていた。私も1時間半ほどウオーキングを楽しむ。オレゴン州の花「薔薇」が美しく香っていた。 復路 インサイドのハイウエーを北へ、海岸線とは違う景色のパノラマを眺めてSeattleに向かう。 Mount Hood オレゴン富士 オレゴン州、ポートランドの南東80kmにあるMount Hoodは別の名をオレゴン富士と呼ぶ。標高3429mの成層火山(活火山)だ。この山の中腹にあるLimberline Lodgeに宿泊の予定だ。徐々に車が近づくとHood山は様々に形を変える。 明日、天気次第で登れるかもしれないと期待する。一昨年、アラスカCruiseのためにポートランド経由でカナダのバンクーバーに飛んだときにWindow seatから見えたのが確かこの山だった。1年後にその山に登ることになるとは思いもよらないこと。 9月中旬というのに駐車場に車が多い。 さすがに夜は寒い。皮のジャケットを羽織り、夕焼けのMt.Hoodをレンズの収めた。背後に(TAKOMa富士)と呼ばれるレーニア山が・・ 翌朝は晴天!ラッキー。 わずかな必需品を小さなリュックにつめて、ひとりで登山道を登り始めた。なぜか訳もなくうれしくて・・・。頂上まで行けるとは思わないが氷河の傍までは登りたい。 ところが誰も登っていない。ロッジを下に見ながら高度を上げる森林限界を越えたのだろう。樹木は生えていない。ゴロゴロとした火山岩と氷河の流れるカールがすぐ傍だ。 若もの数名がスノーボードをしていた。3000mを越えているだろう。呼吸を整えて、ゆっくりゆっくり足を前に進める。ふと、数年前のキリマンジャロ(5000m前で退却)を思い出していた。4000mを越えていたあの時も空気のありがたさを思い知った。ただ違うのは見下ろす下界がアフリカのサバンナでなく、ここは緑り豊かな大地だ。後ろを振り返る。雲の上に「Tacoma富士」と言われるレーニア火山(4800)が見えた。そういえば北米には富士山に似た山が多いと気がつく。いずれも噴火して出来た山だからだろう。 山小屋まで登って氷河を歩いた。3200mまでは登れたのだろう。ようやく先に登っていた人と出会って記念写真を一枚。 この時期、どこのスーパーマーケットにも大きなパンプキンが並んでいる。来月末はHalloween. ロッジで待っている友人との約束の時間が迫っている。もう少しと・・心を残しながら下山した。  コロンビアリバーはオレゴン州とワシントン州のボーダーになっている。 リバーサイドに沿ってレールロードを貨車、コンテナが数km繋がって走っている。アイダホ州から特産のジャガイモや鉱物が運ばれてくるという。太平洋側の港から日本へ船積みされるのだろうか。縦長の大きなアイダホ産のジャガイモマグドナルドのフライドポテトにぴったりとか。 From Oregon With Love「オレゴンから愛」というTVドラマの舞台がこのあたりらしい。 SEattl City に到着。Ichiroが活躍するマリナーズの本拠地だ。 なんと広くて変化に富むNorth Americaだった。 縦横に走るアメリカの4車線、高速道路(ハイウェー)はall freeway(無料)になっている。 ところどころにRest Areaがあるが日本のように食事が取れたり、土産ものを売ってはいない。トイレと(Vending Machine)自動販売機が置いてあるのみ。 広大な土地を移動するのに列車も路線バスも無いに等しい。だからだろうか、Rental Carの料金が一日3000円程度と安い。これは航空会社のmileの優遇が使える。私たちもマツダ社の車を借りた。ホテルも日本の半値くらい。円高の今、私には実に割安な旅だった。 なんと大きく長いトレーラーが実に多く走っている。アメリカの食糧自給率は133%(1998)カナダ、フランスに次いで世界3位。こうした国内物流が車に頼らればならない現実では、温暖化対策には時間がかかるのではないだろうか。 列車を走らせる計画も進められていると聞いている。 イギリスや日本とはまた違った容貌を召せるWide & Broad,スケールの大きな国だ。

St・Augustine(セント・オーガスチン) Old Town of America

Who's said夢は見るものではなく、叶えるもの」と・・今ならできるかも知れない、少し先を追いかけているうちに、いつしか、私(senior woman of Orient)は、St・Augustineの町まで来てしまった。何か奇しき縁に引き寄せられているかのように思えてならない。 St・Augustine(セント・オーガスチン)はフロリダ州北東部にあり、アメリカ最古の町と言われる。400年に前に築かれた建物や史跡はUSAのイメージらしくない。 この特異な雰囲気は、中世のヨーロッパ文化の香りだ。        Atlantic Oceanの海辺に咲く草花と Sunset 資料によると「1565年8月、Pedro Menendez de・Aviles率いるスペイン艦隊がこの地に到着し、村に砦を築いた。その後、フランスのプロテスタント入植地や艦隊を駆逐、何度かの火事、英国の海賊の破壊に耐えてきた。スペイン統治から英国へ、1784年には、独立後のアメリカとの条約で、スペインへ。1821年に、また、スペインからアメリカのフロリダに移譲・・・南部連合へ参加し、南北戦争に係わる、1865年に南北戦争は終結。その後、1880年代には、Henry M. Flaglerの鉄道、観光事業の大開発で、北部の富豪達の避寒地として、St・Augustineの黄金時代が始まる」と記されている。 1959年から続く州政府の保全努力によって歴史の町、St. Augustineは、スペイン文化の趣を残して、各地から旅行者を集めている。大西洋に面する海岸はマイアミのような穏やかさとは異なり、ビーチが荒波に洗われている。押し寄せる大波はサーフィンを楽しむには格好の場所である。ここAtlantic OceanのサンセットもPacific Ocean,ニューカレドニアのそれと変わらない。ふと、数日前に訪ねたケネディ宇宙センターの太陽系惑星の映像がよぎる。 ここにアメリカ史に名を残すCastillo de San Marcosがある。1924年にNational Monumentに指定された。 17世紀、スペインはフロリダ半島を植民地とし、イギリスと激しい領土争いを繰り広げていて、1672年、英国の攻撃に対抗するために、この砦を築きあげたという。 その後、1763年に7年戦争が終結するまでの100年もの長きにわたり、スペイン植民地の守りの要として活躍した史跡です。海上輸送を守るFort(要塞)としての役目を担っていた。 周りには砲弾や砲撃設備が無造作に置かれていた。  翌日、明けやらぬ早朝に、ホテルでゲットした地図とカメラを手にWalkingに飛びだした。無性に探索したくなる街並みだ。日中は38度にもなるが、朝はすがすがしい。    小さな観光都市はまだ眠りから覚めない。昨日、車の中から見たShopping Mallは閉じている。観光mapに載っていアメリカで最も古い家、最も古い学校や教会など・・を探しながら1時間ほど歩いた。 アメリカの灯台(light house)を初めて見た。白と黒の帯にらせん状に塗られている。日本のそれは白いのだが・・。このスワ二ーリバーは湾に深く入り込んでいて、多くの船が行き来していた。 この街を観光目的に選んでくる日本人はまだ多くない。 私は小さな町の路地を散策しながら。また考えていた。 ここ数年、各地で世界の先住民(ニューカレドニア・カリヴ海・タヒチ)と出会ってきた。、St・AugustineにもFountain Of Youthに先住民の資料が保存されている。数世紀前から「人」が住んで生活をしていたのだと・・。 幾度も、統治する国が、人が変われば変えざるを得なかったであろう、暮らし・・。そして今に残された歴史と文化・・・。それを「古い家」の屋根や、スペイン風の建築の壁が教えてくれる。  外からは電線とかゴミ箱等の生活感が見えない。景観法で規制されているのだろう。 街中を観光トラムの赤い電車がのんびりと走っていた。