地中海→アレキサンドリア→スエズ運河→紅海→アデン湾→インド洋→ペルシャ湾→ドバイ上陸→ギリシャへ

地中海(Mediterranean) 2009・10・24イタリア.ローマのCivitavecchia港から米国のクルーズ会社(Royal Caribbean)の客船Legend Of The Seas地中海(Mediterranean)を航海している。2日間は海の上だ。 「地中海ヨーロッパ大陸アフリカ大陸西アジアに挟まれた海というだけではなかった。紀元前から歴史を動かしてきた海域古代エジプト古代ローマ、古代ギリシャ文明への関わりは大きい。古来より、多くの船でこの海域の男たちは行き交い世界の歴史を塗り変えて来たなんて、信じられないほどに静かな海だ。ほとんど揺れを感じない。 一夜が明けてキャビンの窓から小高い山のようなものが見える。長靴のように見えるイタリアの靴のつま先と分かる。カメラを持って上の階に行くと、やがて対岸にシシリア島が見えてきた。街らしいものが見えた。カメラでズームした。            長靴のつま先            シシリア島 アレクサンドリア(Alexandria)  入港 地中海の真珠と呼ばれるアレキサンドリアは地中海に沿って海岸線が延びている。カイロの北西210km、ヨーロッパスタイルの建物が並んでいる。 アラビア文字ブルカの女性たちが、ここはアフリカのイスラム地域であることを教える。 人口450万でエジプト第2の都市,商業の中心である。資料によると「マケドニア王国のアレキサンダー大王によって紀元前332年に建設されたこの町は軍事,財政 においてギリシャ式を導入。 プトレマイオス王朝時代が始まり,その最後の女王があのクレオパトラ7世. 王朝は円滑な王位継承や王朝の安定をはかるため,王家では共同統治や血族結婚が繰りかえされたが,結局王朝内での骨肉の争いが激化し弱体化 また,豊富な富を持つ国として絶えず周辺列強国からの侵略の恐怖に晒され, あのクレオパトラも王朝の維持に腐心し,カエサルのような力ある者と結婚してエジプトの安寧を模索し続けた。」とある。貿易港でもある港に多量のコンテナが積んであった。 アレクサンドリア図書館       モダンな外観       図書館に向かう若い女性たち 図書館というイメージを超えている。円形の外観がいい。Wall壁全体にエジプト文字彫られている。 地中海に向かって傾いた天井はすべて窓になっている。ノルウェーの建築家グループの設計という。  エントランスから内部の隅々まで、最新のテクノロジーを駆使したシステムに目を見張る。 この図書館の沿革は遠くヘレニズム時代にさかのぼるらしい。再建にはアブ・シンベル神殿と同じく全人類の遺産となるものというユネスコの威信をかけて、世界中から資金が集められた。 1990年アレクサンドリア大学所属ビル内に事務局を設立。GOALというプロジェクトをスタートさせる。新図書館のための蔵書購入も1990年から始められ、年間3万冊のペースで蔵書数が増加し、開館時20万冊でスタート、最終的には800万冊を超えるといわれている。貴重なコレクションや貴重な書物が、寄贈や交換プログラムによって個人ならびに研究機関から数多く寄せられたという。 GOALの図書専門職員は、エジプトと諸外国の専門家によるトレーニング・プログラムを受けている。現在では、ビブリオシカ・アレクサンドリナのオンライン図書検索システムで電子目録化の作業が行われ、最新のリストが定期的に出版されている。古文書の修復作業も進められており、いずれは、マイクロフィルム保存担当部門が事務局本部に設置される。 プラネタリウムまで併設されている観光名所になっている。 モンタザ宮殿・・・王家の夏の別荘 ナツメヤシの樹木に囲まれた宮殿は今は美術館に・・緑豊かな広い庭園は市民の憩いの場になっている。 かつてクレオパトラも愛した風景なのだろう。 Suez Canal Passageスエズ運河通過 アジアアフリカの境界、紅海と地中海を結ぶのがスエズ運河だ。エジプト領内に属し、その長さは運河北端の港湾都市「ポートサイド」と南端の商業都市「スエズ市」を結ぶ全長90マイル(約167キロメール。スエズ運河を通過するには時速7ノットで約12時間かかる。 通過する船はスエズ運河管理局に事前に登録し、定められた時間までにポートサイドの「コンボイン」という指定エリアに着いていなければならない。10艘から15艘が1コンボインで、一列に行儀よく並んで通過する仕組みになっている。その間、水先案内人が4組も交替するらしい。 私たちの船は午前1時にポートサイドに着いて3時に出発と予定されている。 運河の入り口ポートサイドの東にはシナイ半島を挟んでエルサレム・パレスチナがある。よく民族紛争ガ繰り返されるところ地域だ。 朝、目が覚めるとすでに船はSuez Canalに入っていた。カメラを持って急いで甲板に出る。 ふと学生のころスエズ運河とレセップスを対で暗記したことを思い出しながら・・。 両サイドの景色が全く異なる。船はゆっくりと進んでいる。この狭い運河を通過するにはこの船が限度であろう。余りの違いに驚いた。右側エジプトには緑の田園が続いているが、対岸のシナイ半島は砂の台地そのもの。モーゼが十戒を授かったというシナイ山はこの半島のどのあたりにあるのだろう。              シナイ半島側              運 河               エジプト側 甲板で私はあるものを待っていた。それはJapan - Egypt Friendship Bridge(日挨友好大橋)だ。ようやく前方に見えてきた。写真はスエズ運河を横断し、アフリカ大陸とアジア大陸を結ぶ唯一の道路大橋だ。このプロジェクトは日本政府のODA無償援助工事で、鹿島建設、日本鋼管、新日本製鐵が請負い2001年に建設されている。当時118億円を投じて・・。水面から橋桁までの高さは巨大オイルリグの通過も考慮して70メートルあり(横浜ベイブリッジは55メートル)、航路限界としては世界一の高さ。別名「Mubarak Peace Bridge(ムバーラク平和大橋)」とも呼ばれる。 これまで、運河を渡る交通手段は5ヶ所に設けられたフェリーと、運河南部のトンネルだけであった。しかし運河を航行する船舶の合間を縫って運航されるフェリーは、事故の危険が懸念されていたため、国民はこの橋に期待を寄せていた。この橋は2001年10月9日に開通。砂漠と運河をバックにしたこの橋は、橋脚の高さが世界最大のクフ王のピラミッドと同じ約140メートル、外観はオベリスク(古代エジプトの記念碑)をイメージしているなど、古代エジプト風の壮大な斜張橋。 徐々に近くなる。         橋桁に日の丸の国旗がくっきりと・ 多くの乗客がバオの上の甲板に上がってきた。アメリカ人が260名、オーストラリア人60名を入れて1000名と発表されていた。私の後ろで、中年の女性が”Why Japan  Bridge?”“Why peace Bridge?”と言っている。私が振り向くと米の男性が“Are you Japanese?”と聞く”yes”と答えると“Wonderful!”と握手を求められた。私のカメラで橋をバックにして写真を写してくれるという。 橋げたにくっきりと見える日本の国旗がまぶしい。日本の高い技術力が評価されること、そしてここを通過する人に知ってもらえることがうれしい。これって愛国心?。 このスエズ運河開通は難行苦行の歴史を持つ。「1859年、フランス人レセップスによって建設が開始され、1869年に開通。当初はフランス、エジプト両国が出資した「万国スエズ海洋運河会社」によって運営されていたが、1875年に英国が財政難に陥ったエジプトから同社株の44%を取得して経営を支配する。さらに英国は1882年に運河地帯を占領し、恒久的な英軍基地。以後、スエズ運河は英国のアジアに対する侵略支配に重要な役割を演じたが、1956年のスエズ動乱(英仏両国のアスワン・ハイダム建設援助撤回を発端とするスエズ運河の利権争い)後にエジプトが国有化し、スエズ運河公社の管理下に置かれる。 一般に大型船(幅運河の幅は160~200メートル。一般に大型船(幅30~50メートル)の安全可航幅は約500メートルとされているため、実は相当ギリギリな幅。写真のとおり船の船橋から眺めると、その狭さが実感できる。大型船の回頭半径は500メートルに達するため、狭い運河内でのエンジントラブルや舵故障は即、衝突座礁につながる。また大型船の長さは200メートル以上に及ぶため、横向きに座礁した場合、運河を封鎖してしまうという最悪の事態も想定される。そのため運河通航中は確実な操作を行うため、手動操舵に切り替えられる。と 運河はマンザラ湖、ティムサ湖、ビター湖を利用して、スエズの地峡を貫いており、ほとんどの部分が一方通行だが、ビター湖、そしてカンタラ市とイスマイリア市の間に設けられたふたつの水路では、対面通航が可能になっている。 右手にスエズcityが見えてきた。Suez Canalの終点、いよいよ船は紅海(Red Sea)に入る。 Suez Canal Tramsit の証明書をもらったSAFAGA(サファーガ)寄港 日本ではあまり知られていないが、エジプトのサファーガはカイロまで500kmの紅海にあるヌビア砂漠の小さなリゾート地。船で紅海を観光する人はここからナイル河沿いのルクソールカイロまで車でゆくこともできる。紅海はここから南へヌビア砂漠のスーダン・エチオピアへと続いている。 私はすでに15年前にエジプトからアブシンベル遺跡(スーダン国境)を観光しているので、今回は砂漠の原住民族Village(村)をバンで訪ねるツアーを選んだ。気温37度、湿度は少ないがかなり暑い。1時間半をヌビア砂漠のでこぼこ道を走る。 いくつも岩山を超えた山の麓にその村はあった。 村人はリビアから流れて来た一族でエジプト人としての登録はしていないという。ヤギや鶏を飼い自給自足で生活している。今では観光スポットになり、手作りの土産物を売り、ビジネスで得たお金で、必要なものをサファーガで調達しているという。子供たちが学齢期に達したら町に出てゆき、「近親結婚はないのか?」という質問には外部の人を選ぶようにしているらしいが・・・。私のヒアリング正しかったかどうかは定かでない。水は山裾に掘った井戸があるらしい。 黒いブルカで顔を覆った女性が石の上でナンを焼くのを見せてもらい、おすそわけにあずかる。痩せた駱駝に乗せてもらい、民族ショウを見せてもらう。 30名の乗客が5台の小型バンに分乗したはずだが、いつの間にか6台に増えている。 気がつくと腰に銃を下げて、背広を着た男性が私たちの周りをまわっている。警護していたのだ。エジプト政府からの要請なのだろう。こうして砂まみれになった6時間の観光は無事に終了した。 アフリカの砂漠は中国のタクラマカン砂漠とは全く砂の質が異なっている。 荒涼とした無機質の岩と砂の台地に緑は皆無。ここに人が住んで生活していた。 アデン湾 (Gulf of Aden)通過・・・Pirate Activity(海賊) アデン湾 (Gulf of Aden) はインド洋の北西側にあり、北をアラビア半島、南をアフリカ大陸のソマリア半島に挟まれた東西に細長い湾。イエメン、ジブチ、ソマリアと接している。 11月1日、Legend Of The Seasアデン湾を通過中だ。船内放送でこの海域の状況を詳しく知らせるキャプテンスピーチが繰り返し流されている。室内TVのインフォメーションでも・・。同じメッセージは英語とドイツ語とスペイン語で書かれて各キャビンに配布された。ソマリア沖海賊(Pirate Activity)のことだ。その船は40ノットのスピードを持つ漁船の形をしているという。2008年4月日本郵船のタンカー「高山」が武装した海賊に攻撃され被弾するという事件は記憶にあたらしい。その後もソマリアの情勢悪化に伴い、アデン湾における海賊の被害が多発している。国連安保理は各国に対して海賊・武装強盗対策のために必要な措置をとることを認める安保理決議を採択した。航海の安全のために、主要7カ国のナショナルチームで連携し警戒体制が敷かれていることは周知のこと。常時レーダーやヘリコプターで監視対策が取られている。日本の自衛隊も参加している。  キャプテン・メッセージの内容は乗客の安全には万全の体制をとっているので安心して欲しいということ。万が一そのような状況になった場合は船を止めることもあること。乗務員一丸となって危険を阻止する訓練ができていること。最新のテクノロジーで救援応援隊を呼べること・・。最上階にある3基のレーダーが頼もしい。24ノットのこの船はこの海域を通過するのに約2日間・・・少し不安だがThrillingでもある。甲板に出てFishing Boatの陰でも見えないかと目をこらしたが・・何事もなく殊のほか波は静かだ。やがて「ようやく安全海域に抜けた」と明るい声のキャプテンスピーチを聞く。 この海域に海賊の出没するようになった背景に思い至る。スーダン・ソマリア・イエメン、いずれにも政治・経済状況の悪化が底辺にあることを・・。 船内5日間 インド洋(Indian Ocean)のアラビア海(Arabia Sea)を航海している。イエメン・オマーン沖を通り、オマーン湾からアラブ首長国連邦のアブダビに入る。 ここ5日間は海の上だ。気温が徐々に高くなり、生ぬるい風が吹いている。タイムゾーンを通過してまた1時間時計の針を進めた。     ビュッフェ・ダイニングルーム     避難訓練 Legend Of The Seas乗客定員1800名従業員720名、7万トン、全長264m、横幅32m、の中型船。今回のCruiseでは、日本のパスポート乗客は1名とコールされている。 船内にはイベント娯楽設備は多様に用意されている。 劇場では毎晩バラエティに富んだショウtimeが催されている。ビンゴゲーム、カジノ、ダンスレッスン、グランドゴルフ。船内のショップがTAX freeで営業されている(停泊中はクローズ)宝石、絵画のオークション、美容エステ・スパなどビジネスも行われる。  私はこの旅でUSAのCruise会社の乗船が6回目になる。概ねその運営される仕組みがわかった。 乗船時のセキュリティには航空機なみのチェックが入る。各ポートに上陸し船にも戻る時も同様だ。Sea Passという個人カードが用意される。これがRoom keyになり、支払いカードになるから、船内で現金を使うことはない。 世界規模のウイルスが蔓延している折から、船内では常時、清掃・除菌作業が行われている。ダイニングルームに入るときには、必ず備え付けの除菌液で手の消毒を求められる。 世界中から乗客を集め、いかにリピーターを増やすかにきめ細かく腐心している。 ゴールドメンバー、ダイヤモンドメンバーに対する特別待遇には念が入る。 乗船・下船の時だけでなく、各種サービスにも優先的な利便が図られていた。 何でもできるし、何もしなくてもいい。自由そのもの・・自由ということは案外不自由でもあることを知る。日長のんびりとビーチのチェアーで寝そべっていることにも限度がある。日本の家では、いつもしなければならないものが目の前に用意されていて、それを追いかけて時間が過ぎる。日本語の単行本4冊もほとんど読み終えてしまった。プールやダンス教室に通う気もない。私は得手でなくどうも惹いてしまう。毎朝、フイットネス・クラブのストレッチに通っていた。その後サウナに入るのが日課。  ある日、一年ぶりに30フィートのロック・クライミングにトライした。途中で浅くかけた右手が滑り3点確保ができず、体がロックから離れてしまって宙づりに・・インストラクター(韓国人女性)のサポートするロープに助けられ、再度ロックにしがみ付きやっとWining Bellに手が届いたのだが・・。腕の筋肉が衰えたのは確実。これでまた一つ「もう今では出来ない」が増えてしまった。 アメリカの友人に言われた”Slow down and smell the flower” 何もしないでいることを楽しめる心の持ち方を工夫しなければ・・・。とは思いつつ、 文化の違いを英語でArgument(議論)していた。日本人のDNAか? この旅で誕生日を迎える私に、アメリカの旅行会社から赤ワインのプレゼントとメッセージが届いていた。 この船は来年、アジア(日本・韓国・香港・シンガポール・中国・ロシア)を航海する。 .そのために、従業員としてアジアの若物を多数ローマから乗船させていた。 アメリカの教育訓練施設を卒業した男女。韓国の女性に幾度かん日本語で声を掛けられ顔馴染みになった。彼女たちは日本語を勉強中とのこと。実によく訓練されている。あらゆる国なまりの英語にも対応できていた。 明日はいよいよドバイに入港、船を降りる。

ペルシャ湾からドバイ→ギリシャ

Dubai United Arab Emirates  ドバイ入港・・下船   朝焼けのドバイ( Dubai)のジュベル・アリ港が見えてきた。港の近くにある人口島に出来た港もだんだん近く大きく見えてきた。  複雑だがドバイはアラブ首長国連邦を構成する7つの首長国のひとつであり、かつ、ドバイ首長国の首都(人口220万)ということになる。アラビア半島ペルシア湾沿岸に位置する都市。 中東地域のほぼ中央、ペルシア湾に面した平坦な砂漠の地にあり、面積は約3,885km²  夏と冬の2季、夏には気温が50度を超え湿度は100%にもなる砂漠気候。『常夏の国』の印象とは裏腹に、11月から3月までの冬期には肌寒くなり、砂嵐もあるという。  私はこのドバイでの滞在ができなかった。急な船のスケジュール変更が発表されたのが、Greek(ギリシャ)へのフライト・チケットを取得した後だったので・・。船から空港までの数時間だけのドバイ・ウオッチング。 近年、Oil Moneyで急成長した金融・流通・観光都市として世界中に知られるようになった。日本を含め世界の大企業が進出し、中東のシンガポールとも呼ばれる。 資料によると「世界一」が実に多い。 人口島に建設された世界最高級の構想ホテル。この島は人工衛星からも見えるというから・・ 世界最大規模のショッピングモール「ドバイ・モール」、世界最大のテーマパーク「ドバイランド」などなど。 しかし、2007年、アメリカのサブプライムローンに端を発した世界経済の低迷により、これまで急激な勢いで伸び続けてきたドバイの経済成長にも、陰りが見え始めているといわれているが、空港までの車も渋滞するような混雑だった。 ドバイメトロ(地下鉄)が日本企業4社を含む5社が建設を行った。2009年、4路線の計画路線のうち、「Red Line」が開通していると聞く。 エミレーツ航空のエアバス 世界最大の人工港ジェベル・アリーと、国際ハブ空港として機能する24時間空港であるドバイ国際空港を持ち、中東地域の人と物の流れの中枢、中継貿易都市としてハブ空港の役割は大きい。折しも、日本で成田羽田ハブ空港問題が議論されている。 ドバイ国際空港(1960年に開港)はエミレーツ航空の拠点であり、全ての大陸との間に定期便を就航させていて、世界各国から多くの航空会社が乗り入れている。2008年に巨費を投じた最新鋭の第3ターミナルが完成していた。広くて内部も外部もスマートなデザインが美しい、あらゆるところにハイレベルのテクノロジー技術が機能していた。 そしてあらゆる人種が利用していた。ギリシャまでの5時間、機内の設備もサービスも充実していた。 ただし、気になったのが「撮影禁止」のマークだ。 私がそのマークに気がついたのは、数枚写した後だった。そういえばガラス張りの空港の内部から外部が写せないようにガラスに模様を入れている。ここはアラブ世界。 私はどこかでこの急進展を見せる「世界一文化」になぜか、危うさを感じる。 今年、トルコエジプトイギリス・スコットランドで独自の文化・文明に浸っていた私は、この国を再び訪ねることはないと思う。 ギリシャ(Greece)共和国へ  11月4日、最新のテクノロジーを駆使した、Dubai「イミレーツ国際空港」からギリシャ(Greece)に飛んだ。離陸した後、プライベート端末で飛行インフォメーションが見てると、この飛行機はペルシャ湾上をドーハ(WTOドーハRoundで知られる)上空→カタール(アルジャジーラ放送局のある)→バーレーン→クウェート上空からシリア砂漠に入るルートをとっている。やがて右側にイラク・バクダットの地名が出てくる。紛争の絶えない中東の上空を飛び5時間後にギリシャのアテネ国際空港に着陸した。                   Greece アテネ(Athnia) 私にもTV旅行雑誌で見知っていたギリシャ・エーゲ海のイメージが出来ていた。プロモーションであれば当然のことなのだが、それらはもっとも美しく、旅情を誘うものを載せているのが常。それを知っていながら、私は現実とのギャップに戸惑うことになる。 手配旅行会社(USA)のアテネ系列社から空港にプラカードを持って迎えが来ていた、車でアテネ市内の旧市街のダウンタウンにあるホテルに向かう。 ここがEU加盟の国かと疑うほど雑然と騒々しい。ロンドン・フランス・ドイツとは異質の空気だ。膨張するアテネといわれる理由なのだろう。道路一杯に車が並んで全く動けない。後ろで救急車がピーポーピーポーとけたたましく鳴らしているが、とても道を空けられる状態ではなかった。3倍の時間を要してようやく到着。 6日間、宿泊するホテルに担当者が滞在中の注意事項の説明に来てくれた。 街歩きにはハンド・バックを持たないように、Pickpocket(すり)が多いという。ここのすりは背広を着てネクタイを結んで折りたたみ傘などを持っているらしい。気づかれたら傘がぶつかったことにしてにっこりと笑うとか。ホテルのすぐ前がナショナル銀行だ。いつも大型の車が停車して、ポリスマンが数名動き回っていた。両替をするために銀行に入ろうとすると、一人ずつセキュリティ・ボックスに入って金属物などをチェックされる。歩道まで行列ができていた。 翌日、日本へ絵葉書を投函するスタンプを買うためにホテルのコンシェルジェでPost officeの場所を聞くと、歩いて数分の2ブロック先にあるという。歩道の角を回ったところに数名の若者がたむろしていた。よく見ると皆やせ細って、青白い顔色に異様な表情をしている。屈んで何かを吸引している者も・・・。とっさに引き返した。なぜ?Week dayの昼間になぜ観光ホテルのすぐそばで? 仕事がない、病む若者は日本でも少なくはないが・・・・。スモーカーが多い。歩道の至る所にたばこの吸い殻が落ちている。どこの国にもある光と影を思う・・・アテネは紀元前時代から民主主義が根付いていたところなのに・・     銀行の前 セキュリティを待つ行列 私は海外で夜は一切外には出ないことにしているが、日中や早朝はよく歩きまわる。今回はバックを持たずにポケットに5ユーロ紙幣1枚、ホテルのキーカメラを入れて、サングラスをかけ帽子を目深にかぶり、早歩きで動き回っていた。 アテネのnaming知恵と戦いの神アテナイに由来するという。エーゲ海は、バルカン半島に属し、南に広がるエーゲ海には大小2000もの島々西をイオニア海南は地中海、北の山頂に雪を乗せる最高峰オリンポス山(2917m)がある。 ギリシャ国土の2割をエーゲ海が占める。首都アテネ(人口745、000)、EU加盟国で貨幣はユーロ、2004年アテネオリンピック開催、NATO とEC(European Community)に加入している。地中海性気候、11月初旬、朝夕は急に冷え込んでくる。 ・・・この国も陸続きのヨーロッパの国々と同じに、ローマ帝国、東ローマ帝国、オスマン帝国、独立戦争、世界第2次大戦へ・・と幾度も戦いを繰り返し、統治者も政治形態も変えて来た歴史を持つ国だ。 主な産業は農業、オリーブ(200万トン)鉱業、造船業、貨物船、貿易、観光資源。紀元前の遺跡が国中に点在し、世界遺産に十数箇所も指定されている。 国会議事堂前のシンタグマ広場はアテネの中心地。この広場にはなんども立ち寄り、すっかりなじみになった。銀行や郵便局、航空会社や有名店、カフェやレストランなどが周辺に集まっている。 今は国会議事堂として使われている、この建物は、ギリシャ国王オットー1世の宮殿として建てられたもの。ここの後方に広大なナショナルパークがある。ホテルから歩いて15分ほど。私は朝早くからよく公園を歩いた。                   シンタクマ公園                  路地から見えるリカヴエントの丘                  2004年オリンピック会場                 ギリシャのパン屋さん                 ケバブのオーブン 国会議事堂の正面には、横たわる戦士の姿のレリーフがる。ギリシャ独立戦争での戦死者のための無名戦士の碑だ。その傍らには民族衣装を着た衛兵が立っており、1時間ごとに衛兵交代の儀式が見られる。実にユニークな歩き方で観光客が絶えない。                  衛兵交代 オリンポス・・ゼウスの神殿    ギリシャ神話をいくつか読んでみた。実に人間くさい、個性的な神々が出てくる。2500年前から人間の喜怒哀楽は不変であったと・・・愉快になる。 今は神殿の柱だけが残っている。思いのほか大きく、サラミのように分断されて倒れている。ということは高い柱もこのようにして積み上げられたものなのだ。コリント式の模様のデザインになったリーフが今も足元で生きていた。 アクロポリスの丘  アゴラ アゴラは古代都市国家を特徴ズケている遺構だ。商店であり、宗教の場であり、行政と裁判にも市民が関わって話をする場所であった。故に民主主義が発祥の場と云われ、古代ギリシャ文明の母胎とされるのは、このアゴラから哲学、歴史学、弁論術など輝かしい文化が生み出されたからだ。アゴラ アクロポリスは海抜154mの岩山の上にある。ミケーネ時代(紀元前1600年ごろ)から人が生活していたという。その後アテネの守護神アテナイ女神の聖域とされ神殿が建造されている。それがパルテノン神殿とエレウシオン神殿(女性の女神)だ。入口を入ると石が積まれたブーレの門がある。神殿の防御のためにAD280年ごろローマ人が建設したものという。なお足下の大理石は、つるつるになっている。何しろ2500年もの間、人の靴で磨かれた芸術品のようだ。雨が降れば危険そのもの・・。 パルテノン神殿は目の錯覚による効果を上手く取り入れていて、例えば建物の安定感を出すために柱は全て内側に傾斜、床も真ん中を少し高くする感じで弧を描き、四角の柱は光の加減で細く見えるのを防ぐため他の柱より少し太めに作られている。継ぎ目が分からないほどぴったり合わされており、柱がやせ細って見えないよう真ん中にふくらみ(エンタシス)をもたせている。この方式はシルクロード伝いに東へと伝わり、法隆寺など飛鳥・奈良時代の寺院の柱にも使われているときき、改めて拡大写真を・・。 エーゲ海 一日エーゲ海クルーズに出かけた。毎日、大型の観光船が何隻も出ている。リゾート地として余りにも知名度が高い。世界中から観光客が来るが、日本人が最も多いとか、乗務員も上手な日本語を話す。青い海と点在する島影、古代や中世で作られた遺跡の数々、海岸線から緩やかに傾斜する山に吸いついたように眩いばかりの白亜の壁の家青い海に映える。 船の中で繰り返される、オプショナルツアーのアナウンスやショップの売り込み過剰が気になったが、快適な気温と心地よい風、やはり現実を忘れる。 やがて、湾曲してポロス島の港に入ると、美しい山の傾斜に街並みが見えてきた。みな一斉にカメラを向ける。 約1時間の停泊時間は自由に街を散策できる。 2つ目のイドラ島には自動車はない、移動はロバのみ、たくさんの猫が港で歓迎してくれる。最終寄港地のエギナ島では、海岸線を島の先端まで歩いた。海辺で遊んでいる子供と親しくなり石投げをした。サンセットを待って時間いっぱいまで島を堪能した。 デルフィ(Delphi)遺跡 アテネから北西へ178km。かつてアポロンの神託(神のお告げ)が行われた聖域として、また世界の中心「大地のへそ」として有名なデルフィの遺跡は、パルナッソス連峰の南のふもとプレイストス河の深い谷を前に、天然の野外劇場のように広がっている。古代ギリシャ人にこのアポロンの神託は卓越した予知能力で知られ、その名声が高まるにつれてギリシャ各地からの代表や民衆が神託を受けに訪れと言われている。各地のポリスや植民地から送られた奉納品で豊かになったと。 鼻梁の高いギリシャ美人のガイドの英語は聞きやすい。 アポロン神殿アポロンの聖域の中核をなす紀元前4世紀に建造されたドーリス式の神殿。 この神殿で行われた神託とは ①汝自身を知れ過剰の中の無=過ぎたるは及ばざるがごとし ③誓約と破滅は紙一重=無理な誓約はしない この神託何やらそのまま、今も新しいように映る。 アポロン神殿の北西に位置する野外劇場は、紀元前4世紀に岩盤を削って造られたもので、観客約5,000人を収容できる規模を持っていたという。身分に関係なく、みな同じように観劇出来るようにと円形に成っているという。 すでにこの頃に民主主義の芽生えが・・          野外劇場      遺跡から発掘された黄金や象牙で作られた奉納品など古代美術史を飾るにふさわしい作品を見ることができる。中でも青銅製の「御者の像」は、紀元前478年頃の古典時代における傑作のひとつで、この博物館の代表作。 3週間の旅の終わり・・。ローマからの帰国のフライトで機内の窓の下に、雪で覆われたスイスアルプスが見えてきた。ヨーロッパアルプスのトレッキングで宿泊した、麓の村の佇まいを思い出す。モンブランの展望台から飛ばしてしまった帽子は今どこに?もう6年前になる。