France Insight Vacations…..

セーヌ川(Seine River) Side walking 30年ぶりのパリ市街地、Rullman Hotel(プルマン・ベルシーホテル)のすぐ近くをセーヌ川が流れている。フランスを蛇行しながら西北に流れ、セーヌ湾に及ぶ、全長780kmの有名な川だ。ここからパリ市街地のシテ島にあるノートルダム寺院までは、約4kmエッヘル塔まで10kmの上流地点になる。 今夕から始まるツアー-INSIGHT VACATIONS (Normandy ,Brittany & the Loire Valley)ノルマンディ・ブルターニュとロワール地方9日間」のWelcome Partyまでの時間をこの河畔を散策してカメラに収めた。セーヌ川観光クルーズからは外れた場所になるが川にはゴミが集められていた。華やかな花の都の光と影・・・。 Welcome Party 6:00pm,9日間のツアー参加メンバーの顔合わせを兼ねたパーティがホテルのレストランで行われた。ツアーコンダクターはフランス人の女性。各自自分のネームのバッチをもらい、シャンペンで乾杯の後、一人ひとり自己紹介をすることになった、意外にも約半数はオーストラリア人、次に多いのがUSA,カナダからは2名のカップルと日本からの私と合わせて42名のメンバーだ。退職者夫婦が最も多い。女性の友人同士など・・みなユーモア(Humor)たっぷりで雄弁だ。 私?私もそれなりに・・。 終了後、娘が東京に交換留学生で行っていたとか、昨年、北海道に行った・・などと一人参加の私に気さくに話しかけてきてくれた。 パリ→ルーアン→トゥルーヴィル(PARIS→ROUEN→TROUVILLE 翌朝、42名は50名乗りの大型バスに乗り込んだ。 「ボンジュール kimiko」何人かが名前を覚えてくれていた。私はバスの番号や特徴とガイドとドライバーの顔と40名の顔ぶれを覚えるように努めた。なぜなら自由行動の時、道に迷った時や集合場所が分からなくなった時に知っているメンバーに合えば安心できるから・・・。兄夫婦と参加しているオーストラリアの女性Chrisが隣の席に座ってくれた。バスの席は毎日2席前に移動することになっている。 ツアーコンダクターの女性は明るく素敵なフランス女性だ、けれど、私にはフレンチアクセントの強い英語が聞き取りにくい。隣のクリスにたびたび確かめる。オーストラリアの彼女の英語は聞きやすい。 ベルサイユ宮殿 旅の始まりは、パリ市街地から20kmにあるベルサイユ宮殿だ。 30年前このゲート前まで来たが何かの理由で入館が出来なかったことを思い出す。 ガイドはしきりに、丁度今、日本人のアーティスト、村上 隆展が開催されていると私に教えてくれる。イヤホンガイド(English)を首に下げて主要な見どころを説明してもらった後は、自由行動だ。指定時間までに自分でバスが駐車しているところまで戻らなければならない。 ショップに行く人、再度宮殿の写真を撮る人、出発前には行列のできているトイレも済ませておかねばならない、広大な宮殿と庭をゆっくり見て回る時間は少ない。この辺りは日本の観光ツアーと変わらない。 ルーブル宮殿を嫌ったルイ14世がここベルサイユに建造した宮殿の庭に圧倒された。見渡す果てまで続く、水のないところにセーヌ川から水を引き、贅の限りを尽くした宮殿は50年後に完成。宮殿内では連日豪華な舞踏会が催され、ロココ様式の宮廷文化が花開いたところだ。 やがてブルボン王朝の財政が悪化し、民衆は疲弊していく。そしてルイ16世の代となった1789年、フランス革命が勃発し、ベルサイユ宮殿はその終焉を迎える。 年間400万人の観光客を呼び、1979年ユネスコ世界文化遺産になっている。 ルイ16世と王妃マリーアントワネット・・フランス革命の舞台だ。 日本では「ベルサイユのばら」で知られている。 ただ、MURAKAMI TAKASHIのアートはベルサイユの調度品や絵画や建物にどうもunsuitable(マッチングしていない)ように思えた。 村上 隆氏のアート 村上氏の作品 ROUEN(ルーアン) 街並みそのものが美術館といわれる中世の古都,人口11万人の街、ノートルダム大聖堂はじめゴジック宗教建築が多数残されている街並みを散策した。 百年戦争でオルレアン解放に力を尽くし、フランスを勝利に貢献したジャンヌ・ダルクが、次の戦いで捕虜になり、処刑されたのがこのルーアンである。 オルレアンの乙女としてフランスの国民的英雄。火刑に処せられた広場に建つ聖ジャンヌダルク教会、 木組みの建物が美しい街を散策。旧市街にある黄金の大時計16世紀のもの。 ジャンヌダルク教会 ジャンヌ・ダルク像 処刑された場所 TROUVILLE(トゥルーヴィル) パリの保養地、19世紀に鉄道の普及で賑わうようになった。海辺に続く遊歩道を歩いた。マリーナにはボートやヨットが係留され、テントには海産物や子供の遊戯施設がにぎやかな音を出していた。 夕暮れ近くイギリス海峡のセーヌ湾沿いの異郷の街を心行くまで歩いていた。 この世の夕食はついていない。どこかのレストランに入るか、ピザとフルーツでも買って部屋で食べることになる。 France Insight Vacations....その3 アロマンシュ(Arromanches)→ポントルソン(Pontorson) ノルマンディ上陸作戦の舞台 1939年から1945年に及ぶ第二次世界大戦( World War II)は、ドイツ、イタリア、大日本帝国の三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争だ。 世界49か国が関わった戦争であり、動員兵力1億1000万人という。この傷跡がフランス北部のノルマンディの海岸に残されていた。 第二次世界大戦でナチスドイツに占領されていたフランスを開放するためイギリス・アメリカ・カナダ等同盟軍が「ノルマンディ上陸作戦」を決行した。よく知られる1944年6月6日、別名、「D-DAY」と呼ぶ。 フランスがドイツ軍に占領されてから4年後の事。ノルマンディの海岸はすべてドイツ軍に占領され、港は特に厳重に守られていた。連合軍はドーバー海峡側の上陸に備え、重車両を陸揚げするための人工の港を砂浜の海岸に建設していた。2ヶ所の人工港のひとつがここアロマンシュ(Arromanchesns)の街という。ここにアロマンシュ上陸博物館(The D-Day Museum in Arromanches)で15分の映写を見た。生々しい記録が映しだされる。英語は聞き取れないところも多かったが、映像が補ってくれる。人工の港(コンクリートブロック)の上に残る戦闘用撃墜用機銃の台座の残骸が今も海岸に残っていた。 カナダ兵士の戦没者名の刻印 英国=SWORD カナダ=JUNO 英国=GOLD 米国=OMAHA 米国=UTAH それぞれの国の基地跡に作られた記念館を見て回った。 特にアメリカの兵士9300柱の白い墓標は整然と並んで、多くを語っている。 「ノルマンディ上陸作戦」は映画にもなっている。 参加メンバーのカナダ人の男性はこの戦争の犠牲になった人と関わりがあるらしく、バスの中でマイクを借りて涙ながらに話していた。 過去の歴史とはいえ、ドイツと同盟していた日本人の私としては何とも複雑な思いだ。 この作戦の2か月後、ドイツ軍が消耗戦に敗れて終戦を迎える、連合軍双方に多くの犠牲者を出して・・。日本の敗戦(1945年)の約1年前のことである。 イギリス海峡は今も波静かに往時を語っているかのようだ。 ドイツ軍の塹壕の後 集合時間まで一人で広いメモリアル記念の中を歩き写真を残した。 民俗のイデオロギーの衝突で始まったこの戦争、民間人犠牲者は2500万人とも伝えられる。先の世界大戦とは何だったのか?フランスも英国も大戦の度毎に植民地が独立し、派遣を失ってゆく。 気温12度、雨が降っていて寒い。防寒具を兼ねて雨具をまとう。 France Insight VAcations....その4 ポントルソン(Pontorson)→MONT ST MICHEL & ST MALO (モン・サン・ミッシェル&サン・マロ) バスはBretagne(ブルターニュ)の小さな漁村に入った。 中世の名残をとどめる瀟洒なホテルで2泊する。今夜がホテルで全員での最初のディナーになる。ドレスコードはCasual(カジュアル)とコンダクターが発表。私は襟付きの黒のチャツと黒のパンタロンに赤いスカーフで・・。みないつの間にか打ち解けてファーストネーム「ボンジュール」「ボンソワール」とフランス語で挨拶を交わすようになっていた。英語圏でない国から参加している私には皆な親切に気を使ってくれる。毎朝、Hi! Kimiko Are you fine? と・・。特に集合時間などは念を押してゆっくりと発音してくれたり・・。一緒にランチに誘ってくれたり・・。 MONT ST MICHEL & ST MALO EXCURSION モン・サン・ミッシェル&サン・マロ 西洋の驚異といわれる世界遺産は、フランス西海岸、サン・マロ湾に浮かぶ、周囲600mの小島にある修道院のこと。広島の宮島と姉妹都市を結んでいる。同じ神社(Shrine)という共通項らしい。 資料によると、708年聖オペル司教が夢に現れた天使ミカエルのお告げで修道院を建設したという。満潮時には島全体が海に囲まれていたが、今は道が作られ自由に大型観光バスが行き交っている。 8世紀に建設されたがフランスで最も美しいといわれる修道院は増改築が繰り返され、ゴジック様式とロマネスク様式が混在した11世紀、13世紀の回廊などを見て回った。 下から物を運び上げるために作られた滑車8世紀のテクノロジー ST MALO(サン・マロ) 海岸線にあるぐるりと堅固な城壁に囲まれた町12世紀から18世紀にかけて造られたもので、第2次世界大戦で破壊されたが、崩れ落ちた建造物を一つ一つ番号をふり、再度積み上げ、完全に復元されたという、重厚な建物を間近に見ながら急ぎ足で先端の塔まで周囲を散策し、歴史の街並みと壮大なロケーションをカメラに・・。ここの住民は「自分はフランス人でもなく、ブルターニュ人でもなく、サン・マロ人だ」と云うほど誇り高い人々らしい。 France Insight Vacations....その5 農業王国フランス バスはBretagneの果てなく続く小麦・トーモロコシの農園を南下している。その他にもサトウキビ・カリフラワー・ニンジン・カボチャあらゆる野菜・穀物食料を生産し輸出している。さすがオーストラリアに次ぐ、世界第2位の農業国食糧自給率122%が頷ける。ちなみに日本は40%穀物類だけでいえばフランスは191%で日本は27%とお寒い話になる。 農園の向こうに原子力発電が2基、水蒸気を出していた。 2泊したポントルソンの街を後にする ホテルの部屋の窓から LOIRE VALLEY (ロワール渓谷)へ このロアール地方には300を超える城があるという。多くは中世の城塞として軍事的なものであったが、時代を経て、政治の中心がパリに移った後は、廃墟になったもの、または世界文化遺産として残され、美術館や博物館に、あるいは王侯貴族の別荘になり、その後、シャトウホテルに改装されている。今も観光客に人気のある中世の古城のいくつかを廻った。 そのシャトウホテルの一つに今夕から2泊する。 Castle Angers(アンジェ城) アンジェ城はロワール川の支流、メーヌ川沿いにあるアンジェの町の崖の上にどっしりと姿を現した。堀に囲まれたこの城は、直径18メートルの円塔を17棟もつ堅固な城壁を持つ。ヨハネの黙示録を描いた中世最大のタペストリー(Tapisseries)=つづれ織りの一種がこの城に残されているというが、今回は城の中には入っていない、写真は前回の購入していた冊子のスキャンである。 城の下に花壇が造られ,鹿が放し飼いにされている。この城の持つ外観の厳しさを和らげているよう。 ヨハネ黙示禄のタペストリー オーストラリアのカップル2組とメーヌ川沿いにあるアンジェの町で軽いランチを取り、散策した。 アゼ・ル・リドー城(Azay-le-Rideau) この城は、1518年から1527年にかけて建設された、ごく初期のフランス・ルネサンス様式の城の一つである。アンドル川の中州に建てられ、城の基礎部分は直接水の中に建築されている。周りの樹木が趣を添えて・ここで暮らした王妃が、騎士が散策したであろう城の周りをゆっくりと散策した。 幾世紀もの間に、城の持ち主は何度も変ったという。20世紀の初め、フランス政府が城を購入して修復した。内装は完全に一新され、現在はルネサンス期のコレクションが展示された美術館になっている。

France Insight Vacations….その2

Chenonceaux シュノンソーヴィランドリー城 (Chateau de Villandry) ガーデン 見事なプラタナスの並木道を抜けると白亜の古城が佇んでいる。中世のお姫様が今にも窓からお顔を覗かせそうな・・・。 30年前、初めての海外旅行で目にした中世の古城、今、再びここに立ち、あの時、覚えた背中がゾクゾクするような感動を思いだしている。前回は冬だったからプラタナスの並木道に枯れ葉が舞っていた。 ロワールの支流シェール川を跨ぐように造られたこの城はどこから見ても一幅の絵幾何学模様に整えられた庭園と周囲の森の緑を背景にして川を跨ぐ城・・・30年の月日を忘れて・・。暫し、佇んで眺めていた。川の水はあの日と同じようにゆっくりと城の下を流れている。 この城は、国王アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシス愛妾ディアンヌ・ド・ボアチェの女の戦いの舞台として知られている。 華やかで絢爛豪華な調度品が王を巡って争った、2人の女性の数奇な運命を思う。劇的な結末を見て変わる城の主、ここで繰り広げられた愛憎劇と王侯貴族の生活を思う、権力闘争に振り回され、うたかたの夢のようなものであったかも知れない。城の中を見学した。カメラのフラッシュ禁止。 ヴィランドリー城 (Chateau de Villandry) Gardens 1536年、フランス王国の財務大臣だったジャン・ル・ブルトンはヴィランドリー城を建設。1869年に、科学者であったカルヴァロ医師が城を買い取り、新しい庭園を造営します。カルヴアロ庭園は、装飾庭園、水の庭園、シンプル庭園、菜園の4面から構成されています。ツゲを幾何学調に刈り込んだ装飾庭園は愛の庭ともよばれ、ハート型で優しい愛を、押しつぶれそうなハート型は熱烈な愛、扇型で移り気な愛、盾と矛の文様で悲劇的な愛をそれぞれ表現しています。菜園には40種の野菜が植えられ、それらは連作障害をおこさせないため3年ごとに輪作されている。とても多様な庭園様式を融合させた庭なのに全体に調和していて、さらに広大な庭なのに細部にまで手入れが行き届いているのは、フランス人の庭にたいする情熱のなせる業か。 France Insight Vacations.....その7 Chateau De Rochecotteシャトウ・ホテル宿泊 憧れのシャトーホテルに宿泊できるなんて・・年がいもなく浮き立っている。バスはホテルの看板を左に見てゲートの扉をくぐった。森の中の道路を数分走ってようやく白亜の建物に着いた。ナポレオン所縁のホテルという。クラシックな調度品の豪華なロビーに見とれていると私の名前が呼ばれ、部屋のキーが渡された。 部屋に入って「ワーオー!」と歓声。タイムトンネルを抜けて、気分は中世のお姫様 早速、部屋を写真に収めながら、スーツケースの到着を待つ。エレベーターはない、ポーターにチップを用意していると、ノックの音,「はーい」こんな時は何故か日本語で返事している。ドアを開けると、そこにはスーツケースだけが置いてあって人影はない。さすがに、チップはこのホテルに相応しくない。 今夜のディナーのドレスコードエレガンスとか。準フォーマルのスーツを1着入れていて良かったと思う。 全員の写真撮影があった。   裏庭から続いている山を登ってみた。数百年前にこの城に住んだ貴族が狩りに興じたのであろう。トップには草の原が続いていた。 チャペルのある城の周りを散策していた。 クロード・モネ(Claude Monet) フランスを代表する印象派の画家、クロード・モネが43歳のときに移り住み、生涯を終えた場所がパリの西約70km、セーヌ川 が近くを流れる小さな村、ジヴェルニーを訪ねた。周囲には牛が放牧されているのどかな風景、ここが晩年のモネが暮らした家と庭 になっていて、人気の観光地になっている。 連作、睡蓮(Water Lily)が描かれたあの池がある。この池に掛けられた緑色の太鼓橋が有名なJapan Bridge である。 橋の上には花の季節を終えた藤の棚が長い葉を残していた。 ハスの花は盛りの季節を過ぎたのだろう。小さな数個の花が咲いていた。 はしだれ柳に囲まれた池だけかと思っていたが、なんと広大な庭にはたくさんの植物と花々が咲いていた。 モネには「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家として知られている。20世紀に入って睡蓮の連作をはじめ多数の作品を残している。同じ時代のルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進むことになるが、モネは終生印象主義を追求し続けたといわれている。 淡いピンクの外壁のモネの家は、イエローを基調としたダイニング、ブルーのキッチンなど、モネが暮らしていたころの家具と共に残されていたが、ここは撮影禁止。 驚くのはモネの豊富な浮世絵コレクション北斎・広重・歌麿の浮世絵がジャポニズム・モネを語っている。日本通で知られたフランス画家を身近に感じた観光スポットだった。 旅の終わり・・ 8日目バスは再びパリ市街地に入った、 エッフェル塔・・夜にはライトアップされるパリのランドマークフランス革命100周年を記念して、1889年パリ第4回万国博覧会のために建造されエッフェル塔、工事を請け負ったエッフェル社の名前に由来するらしい。建設は万博に間に合わせるため、2年2ヶ月という驚異的な速さで行われたが、1人の死者も出していないという。クライスラービル(ニュヨーク)が完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。基本構造は今でも現役で稼動している鋼錬鉄製の塔である。塔の支点の下にあるジャッキで水平が保たれているとか。 今は軍事用の無線電波を送信することになり、国防上重要な建築物になっている。121歳になるパリのシンボルは、1991年この塔を含むセーヌ川周辺は世界遺産として登録されている。 1時間のセーヌ川クルーズで周辺の建物を写した。 20年後の今、技術の粋を集めて東京スカイツリー634m(電波塔としては世界一)が建造中である。 バスの中から眺めたシャンゼリゼの通りも、ルイビトンの店もあの日の場所に・・・・。 ただ違っていたのは、商業用の看板がカラフルな液晶画像の動くそれになっていた。 今も周囲のクラシックなグレーの建物に原色がよく似合う街だった。バスはシャンソンの枯れ葉のメロディーを流している。 早くもマロニエの樹木にクリスマス用のイルミネーチョンの準備が出来ていた。 帰国してCNNニュースを見たら、この塔の下を武装した警官があわただしく動く画像が流れた。テロ情報による警戒らしい。このタワーが軍事用の電波を飛ばすためか、観光客が多いからか・・・何とも不穏な時代である。  明日は42名のメンバーの別れの日である。 Mailアドレスを交換したり、無事に終わった旅を祝福してHuging・・See you again。  

UK. Lake District(湖水地方)→France

United Kingdom入国 Lake District (湖水地方) マンチェスター空港入国審査を受けた。現地時刻6:00pm、 混雑はなかったが、女性の入国審査官に根掘り葉掘り質問された。初めてのことである。 審査官曰く、何日間の滞在か?私は5日後に鉄道でパリに行くことを伝えると、一人か?と問い、鉄道のチケットと帰国の航空券を提示せよ」という。私は書類を出すため、リユックを降ろしていると、矢継ぎ早に「what your job? 仕事は?」と冷たい声。私もつい声高に「None I’m retired. Look at my age the Passport., in your hand. 仕事はありません。私は退職者です。そのパスポートで私の年齢を見てください」と切り替えしていた。 書類の束を狭いカウンター並べると、出入国スタンプやvisaで埋められた私の旅券をめくりながら審査官は「Okay Okay」と笑いながら旅券を返してくれた。 シニアの一人旅が怪しいのか?もしや密貿易でも疑われたか?品格ある日本のパスポートなのに・・とあまり愉快ではない。 そのまま、スーツケースを引いて、サインを見ながらタクシー乗り場を探すも、それらしいタクシーがいない。名札を下げた係員に尋ねると2台並んでいる黒い車だという、なんと車体の上に{TAXI}の看板がない。白タク?ドライバーが降りてきて私のスーツケースを後ろのトランクに入れている。車の前方を覗きこんでメーターを確かめた。Britannia Hotelの名前と住所を言うと「OK」という。What take a time?どのくらい時間がかかるか?を聞いて車に乗った。海外でYellow Cabを見慣れた私にはどうも落ち着かない。地域が変わればいろいろらしい。郊外にある空港から街の中心地に入る周りの景色はどこも似ている。 Manchester(マンチェスター) 翌朝、日の出を待って街歩きに出かけた。今日、10:16分に乗る列車のマンチェスター.ピカデリー駅が近くにあるはずなので下見をしておきたい。地図を見ながら人に聞きながら駅を見つけた。この距離なら、タクシーを呼ぶまでもなくスーツケースを引いて歩ける。駅舎のチェックインの場所を確認した。 週明けの朝、ビジネスマンがコートの襟を立て、急ぎ足で職場に向かっている。人口46万人イギリス第3番目のグローバル都市だ。 同じような景色を思い出す。アイルランドのダブリンや、ノルウェーのオスロ―やUSAのボストンにも似ている。 マンチェスター・ピカデリー駅 イギリスの国内鉄道 出発30分前にブリット.イングランドフレキシーパス(鉄道パス)に使用開始のスタンプ(Validation Stamp)を押してもらう。これがないと無効になるのだ。 エジンバラ行きの列車が到着するプラットホームを確かめ、予約席のある車両がどのあたりに止まるかも再確認した。緊張して異国の鉄路のホームでじっと待っていた。サインボードは定刻に到着することを示している。 ようやく座席に落ち着くと係員が飲み物のサービスに・・ 続いてチケットのチェックにきた。 ここからオクセンホルムLake District駅まで約50分の乗車。駅に降りると私の名前を書いた紙を掲げてドライバーが待っていてくれた。3日間連泊するアンブルサイトのB&Bまでの送迎車だ。ホテルのママさんに挨拶し、荷物を解き窓からの瀟洒な街並みを眺め、暫し、休憩。 アンブルサイド(Ambleside) 美しい街だ。年間1千万人の観光客が訪れると言うLake District(湖水地方)の中心地だ。ここアンブルサイトを中心に北にグラスミア、南にウインダミアやボウネス・コニストンという観光拠点がある。部屋の窓からひときわ高い教会の尖塔が見えている。ランドマークだ。 山と渓谷と丘の間に16の湖と500もの小さな池が点在する湖水地方。 2時間程度の初心者向けから3~4時間の中級者向けといくつものWalking Public Courseが整備されている。A6サイズのガイド案内書(英語)が用意されている。 さて、3日間の滞在中にいくつのコースが歩けるだろうか。 まず、この街の探索を始める。インフォメーションセンターバス停を探し、バスの時刻表を確かめねばならない。レストランやコンビニのようなショップもある。夕食とランチは自分で調達しなければならない。  午後、足慣らしに歩いた2時間のコース、土地勘がない者には、案内書のみでは、コースの入り口が分かりにくい。人に聞きながら見つけた。個人の庭や小さな路地から入っていくものもある。       コインが埋め込まれた樹木の幹 Lake District(湖水地方)は英国有数の自然美を誇る観光名所として知られている。このエリアは国立公園にも指定されているが、4分の1はナショナル・トラストが所有し管理維持している。 水辺では人懐っこい白鳥が寄ってくるし、頭上をカモメが舞う。谷川を流れる水の音を聞いて・・歩き磨かれた石の道、小石の敷き詰め道、フィールドの道、気温18度緑の樹木が覆いかぶさって午後の光を遮ってくれる。こうして私のLake District walkingが始まった。 グラスミア(Grasmere) 15分乗ったバスから降りたものの、どの方向へ歩けばいいのか全く分からない。人に聞いてようやく、出発地のSt .Oswald’s Parish Churchの前に来た。そして思い出した。 昨年、インサイド・ツアーで立ち寄りランチを食べたところである。あの時だった。いつかこのFoot Pathを歩いて見ようと思ったのは・・。 あの時、時間に急かされて見学したワーズワースの家と庭の前に、今再びこの前に立っている。ゆっくりとビデオカメラを動かした。 黒い石を組重ねて造られた家並が古風で美しいグラスミアの街だ。静かに佇んでいる。 ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth, 1770年4月7日-1850年4月23日)は、イギリスの代表的なロマン派詩人であり、湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いている。1843位年、73歳で桂冠詩人となった。 <郭公> O BLITHE New-comer! I have heard, I hear thee and rejoice. O Cuckoo!shall I cal the Bird. Or but a wandering Voice? While I am lying on the grass Thy twofold shout I hear From hill to hill it seems to pass, At once far off, and near Though babbling only to the Vale Of sunshine and of flowers, Thou bringest unto me a tale Of visionary hours. Thrice welcome, daring of the Spring! Even yet thou art to me No bird, but an invisible thing, A voice, a mystely, 郭公という具体的な「鳥」の彼方に、魂に共鳴するイメージを感受し、自然の崇高な奥深さを詩っている。どこにもない、しかしどこかにある、理想の世界や境地や神秘性を詠う、ロマン派といわれる所以である。 この日、St .Oswald’s Parish Churchを背にして歩きだし、4時間のライダル湖周遊コースを歩いた。丘の上から街並みと湖が見える。昨年のコッツウォルズとは異質のコースだ。 多くの人に踏みこまれた道、一人歩きは変わらないが、数百メートル前方を男性が歩いている。時折、反対側からのウォーカーとすれ違い挨拶を交わす。  想像していた通りの景色を堪能しながら、17kmは歩いたろうか・・適度に疲労した足をケアしたいがシャワーのみ、夜間急に冷え込んできた。 Lake Distric  ヒルトップへ ビアトリクス・ポター 青い上着をはおったうさぎ、ピーターラビット。1902年に初出版された絵本「ピーターラビットのおはなし」は、ピーターラビットと仲間の動物たちの物語として、23巻シリーズで、現在までに世界111カ国で翻訳販売され、累計1億部発行されているという。 裕福な家庭に生まれたビアトリクス・ポターは学校に行っていない。乳母と家庭教師の教育で絵を描くことを勧められたという。毎年、家族で夏の間の3か月間、田舎の家を借りて過ごしていたポターは、好んで田舎や森を探索し見るものすべてを絵やスケッチにしたらしい。想像力豊かな資質と才能はこの頃に育まれたと思われる。    後年、世界的に知られる絵本作家であると同時に、自ら汗して畑を耕す敏腕な農業経営者でもあった。ニアソーリー村のヒルトップ近くの農場が売りに出されると買い取って、アヒルや雌鶏の他に、湖水地方原産で耐久性と防水性に優れた、ハードウイックという種類の羊を増やしてゆく。 さらに環境保護活動家でもあるポターは47歳で弁護士のウイリアム・ウィリーと結婚し、77歳で亡くなるまで湖水地方で過ごした。 周りの農場もポターが絵本の印税やロゴの権利で得た資金で買い取ったところだ。後年、遺言で「この自然の美しさを永遠に残す」ことを条件に広大な土地・牧場・コテージなどをナショナル・トラストに寄付している。夫のウイリアム・ウィリー氏は彼女が土地を購入したときに手続きや管理を手伝った弁護士である。 「ピーターラビットのおはなし」をはじめ動物や小鳥や植物を題材に多くのお話を描いた場所がニアソーリー村のヒルトップ(Hill Top)という小高い地域に残されている。当時のガーデン・コテージの雰囲気を100年以上を経て今にそのまま伝え、観光客が押し寄せている。 3日目、私はここを目指した。Bowness(ボーネス)までバスに乗り、フェリー乗り場まで歩き,Windermere湖を渡り、山を登り丘を越えフットパスのマークを探しながらようやく目的地にたどり着いた。時折、雨が降ったり、日が射したり目まぐるしく変化する。 途中、小高い丘に数軒の家が・・庭にいた中年の女性が私に気づき、笑顔で迎えてくれた。一人歩きの東洋の女性に興味を持ったのであろう。私が聞く前にAre you going to Hill top?と話しかけ道順を教えてくれ、We have some Japanese Guidebook. とそこには、日本語のガイドブックもあると教えてくれた。「ニイハオ」でもなく「アニハセヨ」でもなく日本人と識別されてうれしい。目指すHill Topはあと1㎞ほど先らしい。 片道約4km余りの山道を歩いた。ここへは湖の反対側から陸路でバスや車で来れるので多くの観光客で賑わっている。コテージの中を見学するために買ったチケットに1時間後の時間が記されている。資料館やショップや件の庭を散策して、入室時間を待ったいると日本語が聞こえてくる。数組の団体ツアー入っているようだ。 100年前を維持するためにナショナルトラストの係員が一度に入る人数をコントロールしている、入館前に注意事項や建物内の説明がある。 2階への狭い階段や壁を傷めないように、手荷物はすべて前に持って下げることを要求される。勿論、カメラ禁止。現地で購入した資料ブックをスキャンした。 ポターが作品を書いた部屋や大事にしていた陶器類、絵画やスケッチなどが100年前のまま保存されている。 庭の畑に大きなカボチャが転がっていた。絵本に出てくるそのままのたたずまいで、今にもいたずら者のピーターラビットが走り出してきそうな・・・。 石造りの家の壁に1906年の文字をカメラでヅームした       壁に刻まれた1906年 帰途は違うルートを歩いて桟橋まで降りることにした。周りの景色を眺め小川の流れの音を入れてビデオカメラを回した。幾度も振り返り、もう再び来ることはないであろう景色に別れを告げる。 こよなく自然を愛したビアトリクス・ポターの類まれな生涯に思いを馳せる。この道を 歩く人は変われど、この先、いつまでもこのSceneryは残るのだと・・・。 本格的な山のような急斜面の道を降りて湖岸に着いた。 フェリー乗り場に行くのにどうも反対側に歩いていたらしい。対面から歩いて来た老夫婦に問いかけてそれと分かり、一緒に桟橋まで30分ほど歩いた。彼らは車でマンチェスター方面から数日間の保養に来ているという。一緒にヘェリーの時間を待ちながら、お子さんやお孫さんの話を聞かせてもらった。穏やかな人柄のご夫婦と写真を撮りあった。 フェリーの上で虹が見えた。良い1日だった。 ユーロスター(鉄道)でフランス入国へ ウインダミア駅(Windermere)→オクセンホルム駅(Oxenholme)で乗り換えロンドン・ユーストン駅(London Euston)に順調にたどり着いた。ここから数百m離れている国際列車の駅St. Pancras (セントパンクラス駅)に移動しなければいけない。タクシーで5分と聞いていたが、サインボードに従って人の流れについて歩いていると、International Stationが見えてきた。なんと重厚で美しい建物だ。荷物を置いてカメラに・・。もしタクシーに乗っていたら気づかなかったかもしれない。 2時間余の時間がある。一等車の指定席券を用意しているが、窓口で一つ早い列車の空席がないかを聞いてみた。金曜日であいにく満席という。スーツケースがあるからあちこち歩くこともできず、ひたすら忍耐の待ち時間。 パスポートとチケットを提示にして、ユーロスターのチェックインを済ます。 ところがパスポートに英国出国のスタンプもフランス入国のスタンプも押されていない。 私はこれでパリから出国できるのだろうか?マンチェスター入国を思い出して不安になる。 とにかく、チケット類を整理して説明できるようにしておこう。 快適な一等車の指定席に座り、目を閉じる、疲労がたまったのか眠い。2時間半でドーバー海峡を越えてパリの北駅に到着の予定。飛行機並みの食事のサービスがあった。 30年ぶりのパリは雨だった。パリ北駅でタクシーを待つ長い行列に並び、待つこと1時間余り・・・・。 約10時間余をかけてフランスに移動。 明日の夕刻から始まるインサイドツアーの指定ホテル(Pullman Hotel paris Bercy)に落ち着く。