Nepal その1 Patan (World Heritage Sight)

Nepal Patan 東日本大震災のニュースを知ったのはNepal入国3日目、Kathmandu(カトマンズ)の南西Patan(パタン)の仏教遺跡を巡っているときだった。今回、ガイドを依頼したPrakashのモバイルに日本から電話が入ったのである。 以前、カトマンズをガイドした群馬県に住むKさん(女性)からだった。丁度、この頃に日本人女性のガイドすることをE-mailで知っていたらしい。私がどこの県の出身かも知らないまま、サテライト事情のよくないNepalまで知らせてくれたのである。ご親切に感謝! 翌日のネパール新聞の一面Top Newsで扱われていた。 Patanは別名ラリトプルネワール語「美の都」と言われている。西暦300年ごろ、アショーカ王によって作られたと資料に残され、15世紀にはパタン王国があった。その旧王宮ダルバール広場ユネスコ世界文化遺産として保存されている。日本の京都のような寺院(ヒンズー教や仏教)や僧坊の多い街だ。 ガイドPrakashの住まいはこのPatan(パタン)にある。私は彼の勧めもあり、数日を17世紀(筑後400年余?)の住宅に宿泊することに決めていた。街並みそのものが世界遺産という、住まいと生活を知りたかったのである。 十数年前になるだろうか、1000年前から残る世界遺産の街、モロッコのフエズを歩いたことがある。ガイドについて迷路のような古い街を歩いた。アラビアンナイトの物語に出てくるどこも同じ「扉」の中の暮らしがどうなっているのか、妙に気になったことを思い出したのである。 夜間も停電になるのが常時のことと知ったのは現地についてからのこと。 TVはもちろんパソコンで情報を取ることも出来ない。 この日の夜、たまたま数時間のみ電燈がついた。カメラの充電を行い、わずかの間、BBCのニュースを見ることができた。日本で起きている事態の異常さを知ったが日本への連絡はままならない。 古都の住居 アラビア風の家に似た両開きの木製のドアを開けると、薄暗い狭い通路が20mほど奥に伸びている、土間の幅1m程度だろうか、突き当りに鉄格子の扉、鍵を開けて入ると、右手に階段があり、木製の梯子が上に伸びている、踏板10㎝幅の狭い階段を8段上ったところにある2坪ほどの部屋が私に提供された。ベッドとソファーが置いてある。入口にも鍵のかかる木製のくぐり戸のようなドアは低く、幾度も頭をぶっつける羽目に・・。日本人の私ですら天井が頭のすぐ上、ネワール人は随分と小柄だったと思われる。踊り場を数歩あるいた先にある8段の梯子の上がガイドの部屋,。TVやパソコンが置いてあった。またその上の階に彼の父親の部屋とキッチンがある。日本に「ウナギの寝床」という言葉があるが、4回建のそれはウナギの寝床の縦版、17~18世紀(400年前)のままに,細長い棟続きで大凡高さが同じになっていた。傑出した職人の街の原型なのだろう。 ヘッドランプを持って手探りで8段降りた奥にネパール式トイレがある。片隅に小さな水漕と水道の蛇口があり、柄杓で水を汲んで自分で流すものだ。その隣に一応のシャワー室があるが湯はおぼつかない。かつて山歩きをしていた経験が活かされるのはこんな時だ。数日、入浴できないことがストレスになるようでは”ひとり旅放浪”をする資格はないと思っている。 ここの生活で最も気を付けたのは食事である。日本人旅行者はインドやネパールでよく下痢に見舞われる。「清潔」な習慣で純粋培養された日本人のお腹は簡単に雑菌に犯される。前もってボイルした食材しかとらないことを伝えていて、バナナ以外は生の野菜を口にしなかった。食器を洗う水も問題なのだが、そのリスクは避けられない。抵抗力と体力を信じ、常にMineral waterのボトルを持ち歩いた。 一先ず荷を解き、古都の街並みを数時間歩き廻った。 この町は仏教伝統工芸の街として知られている。精巧な仏像の細工物がShow Windowを飾っていた。 マハボーダ寺院 ブッタガヤのマハボーデを模して造られたといわれる、この寺全体に9000体の仏が彫刻されている。古代の職人の技に見とれた。の 旧王宮のあるダルバール広場 周辺に所狭しと古い寺院や建物が保存されている。急に冷え込んできたが街は賑わっている。 私はこの後、Nagarkoto(ナガルコット)への1泊2日の旅から戻りもう一泊した、その後、釈尊の生誕の地インド国境近くのRumbiniへ2泊した後は、自家発電設備のあるサテライトTV受信可能なカトマンズのホテルに移動した。後半の旅の予定を変更してNHK World ・CNN・BBCチャンネルを回し続けていた。故郷の山形、仙台の知人に思いをかけていた。広島の息子に連絡が取れ山形は無事と聞いてひとまず安心・・。

Nepal その2 Nagarjin-Hill→ Nagarkot

Nagarjin-Hill→ Nagarkotナガルコットヘ 停電の中、2日目の朝が明けた。夜明けは6:00ごろ、寒い、気温5度?、一日の気温差が激しい。一枚づつ脱げるように衣類を整え、簡単なネパール式食事を済ませた。 専用車でNagarjin-Hillへ向かった。 小高い山の中には2008年に政治変革が行われるまでの王様ギャレンドラの現在の住処があると聞く。軍の警備が厳しく許可のない車は入れない。 Nagarjin-Hill チベット仏教の聖地になっており、たくさんの信者が参詣に来ていた。バターランプに火をともし、熱心に願い事をしていた。眼下にカトマンズ盆地が見える。 高度2000m、そこから2時間トレッキングで山を降りた。心地良い風と気温、なんとぜいたくな山歩きだろう。何しろ、樹木の間から見えるのは頂(Summit)に雪を載せたヒマラヤ山群なのだから。 専用車が待っている筈の場所に車が来ていない。ガイドが電話で連絡すると、入山の時3人で乗ったはずの車に客がいないので検問にかかり通してもらえないのだという。ガイドが入山料を払っている私の名前を報せ、トレッキングで降りたことを当局に説明してようやく納得してもらったらしい。その間、待つこと1時間、道端の茶店で犬と遊んだり、景色を見たり・・。 Nagarkotへ カトマンズから北東へ32km、ヒマラヤ山群が見渡せるこのエリアは、特にサンセット・サンライトの名所、訪れる観光客が多い。 ホテルに落ち着いて、ガイドと周辺を歩いて見ることにした。 すると、どうも日本人らしい男性が歩いてくる。「コンニチハ」と声をかけてみた。 やはり、横浜の男性で休暇を利用し、数か国をひとりで旅していた。明日、日本に帰国とのこと。 この時は日本に起きる震災の前日、もし成田空港でしたら着陸できたのだろうかと気にかかった。 世界の屋根と称されるマナスル・ランタン・エベレスト・・日の出と落日の瞬間・瞬間、徐々に変化しその表情を変える。「ワーォ」と感嘆の声が上がる展望台は防寒具に身を包み、カメラを持った観光客で満たされた。     中央の山がMt.Everest(8848m)        白く光るLangtang(ランタン) Sun rise 3つ並んで朝日に輝きだしたのがGanesh4.Ganesh2. Ganesh 3 いずれも7000mを超す秀峰

Nepal その3 Changun.narayan(チャング・ナラヤン)・ヒンズー葬送の儀

翌朝、7時起床、ホテルの朝食はコンチネンタル風 こちらの卵やチキンは美味しい。農家の庭先でよく見かける地鶏なのか・・。 2時間余りのトレッキングで山を降りた。真っ赤なシャクナゲの樹木がある。Nepalの国花だ。 村の子供たちがついてくる、トレッカーが何か持っているのを知っているのだ。偶然にガイドの知り合いの子供たち3人兄弟で出会い写真を撮った。 大きな荷を背負った女性、高地の段々畑で何が採れるのだろうか。鶏がいる。犬がいる。農家のたたずまいは日本の60年前のそれだ。 首都カトマンズから30kmの距離というのに同じ国内とは思えない程の格差に唖然とする。 Changun.narayan(チャング・ナラヤン) 山を降り専用車でヒンズー教の最古の寺院Changun.narayan(チャング・ナラヤン) (世界遺産)に向かった。 1700年頃の建造といわれる装飾彫刻の施された支柱なヴィシュス神を祭った建物、その他にシバ神の祭った祠などが重厚な歴史を刻んでいた。ここに訪れる観光客は多くはないらしい。米国人だろうか、カップルが英語のガイドで説明を聞いていた。  世界遺産の街並みは焼き物の産地でもあり土産もの売り場に・・・。     各地の見学場所の入場料は外国人のみ、チケットの束を前にして記憶をたどっているが、不確実だ、ネパール語の傍らに英語で書いてあるのだが、現地語の発音表記、どこのも似ており写真の整理に戸惑っている。 小学生の修学旅行らしい集団が来ていた。 私のブログは旅のガイドブックではない。而してあの場所で私の目を惹いた画像が多い。 各建物ごとの詳しい名称や謂れは省いている。 異文化“葬送の儀式” カトマンズにあるネパール最大のヒンズー教寺院、パシュパティナート。 寺院はガンジス川の支流のバグマティ川に面している。 ガイドは河原の火葬場(ガート)で荼毘に付し、遺灰は聖なる川に流される現場に案内するという。 我々日本人の感覚では俄かに信じられないことだが、この火葬場は対岸から見学できるようになっている、地元のネパール人もここから火葬を普通に眺めていた。有名人の火葬の時は特に賑わうという。数か所で強い火の手が上がり、荼毘に付されていた。これから火葬にされる老人の遺体が赤い布にまかれて足元を水につける儀式が行われている。  暫く、かすかな異臭の前にたたずんでいると、眺めている人も火葬をしている人も、この風景のなかでは、自然な営みのように思えてくる。ここは誰でも迎えるEnding への準備をするところなのかも知れない。   そもそもこの場所で葬送されることはヒンズー教徒にとって喜ばしいことで、 逆に必要以上に死にタブー意識を持っているほうがおかしいのかも知れない。  隣に養老所の建物があった。ここで明日のわが身を思い、心の用意をするのであろうか。 この川がガンジス河に合流している。当に遺灰は聖なる河で自然に還るのである。 明日釈尊の生誕地を訪ねる。

Nepal ..釈尊 救済の聖地、Lumbini へ 

世界を旅していると「宗教」を持っているか?と聞かれることがある。実際にFace Book登録には宗教の項目がある。日本人の多くは特に・・とか無宗教と云うようだが、それはその人の信用にも関わるらしい。つまり、宗教心のことだと思う。私はBuddhistと答えている。釈尊が最後に説いた法華経の見宝塔品第11の地涌の菩薩の眷属と自負している。先祖は多宝仏を仰いだ虚空の儀式に参加していたやも・・・。 そんな私が釈尊生誕の地へたどり着いた。世界に流布している偉大な哲学者の聖地は農村の中にひっそりと未だ未整備であった。  今回ガイドを依頼したPrakashは世界遺産の街Patanに住むでいる。母親を病気で亡くし、父親と暮らしている。父親は信心(仏教)篤く、温厚な人柄だ。私の訪問を心から歓迎してくれた。英語も日本語も全く話せないが、人はその表情が一瞬で多くを語る。言葉は通じなくてもコミニュケーションに全く不自由しない。元この地で大工さんをしていたが、数年前に胃の手術をしたあとは仕事はやめている。  父親は私が今日から旅するLumbiniへは35年前に1度行ったきりという。往路は専用車で復路は飛行機の2泊3日の旅になるが、「ご一緒にどうですか」と提案すると喜んで・・・と 、斯くして、私とガイドとドライバーと4人でパタンを出発した。  カトマンズから数十km間の道路は日本の支援で舗装されていたが、いつの間にか両サイドの舗装はなくなっていた。  標高1300mの首都カトマンズから山間部を縫って延々と下りの道が続く。この道はカトマンズとインドを結ぶ唯一の交易幹線道路だ。大型トラックが生活物資を大量に積んで何台もつらなり前方から登ってくる。インドの車TATA社のトラックだ。登り道でよく故障するらしい。 幾つもの村を通り街を抜けた、山間部を抜けると麦畑や根菜の畑がでこぼこの路の両サイドに広がる。 ルンビニまで320㎞でも約8時間を予定している。              インド→カトマンズ幹線道路のトラック         荷物を頭で担ぐ女性          故障車  途中で昼食、こちらで「定食」という、大皿に載せたご飯の上にインド風カレー味の野菜と汁をかけて、五本指で器用に混ぜて食べるものだ。これがネパール定番料理だが、固いぼそぼその米にどうにもなじめない。それにいつも付け合せがキウリ・ニンジン・ダイコン・トマトなどの生野菜だ。これも駄目、結局、私は日本の焼きそばのようなヌードルを注文した。そばにチキンが一匹丸焼きにされていた。先ほどまで庭を駆け回っていたものだろう。             丸焼きチキン           洗濯する子供         砂ほこりの道 救済の聖地、Lumbini   ようやく辿り着いた、釈尊生誕の地インド国境まで8kmの平坦な村だった。日本の震災の状況が気になるがホテルの部屋にTVはない、窓から柵を直している職人が見える。 ホテルで一休みして、歩いてゆける聖地の一部を訪ねて見ることにした。 1997年ユネスコ世界文化遺産に登録されたルンビニ仏陀の生誕地と宗教的・考古学的に重要なところとして認められた。悟りを開く前の名をゴーダマ・シッタールタといい、カピラヴァスツ王国皇太子として紀元前623年にここルンビニ庭園で誕生したと史実にある。王妃マヤ・デヴィが出産のために実家に行く途中に立ち寄ったルンビニ庭園マヤデヴィ王妃がこよなく愛した庭園だと・・。無憂樹(菩提樹との説もある)の枝に手を触れたときに陣痛が起きたと伝えられている。大きな樹木が同じところに葉を茂らせていた。多分、何代目の樹木であろう。  聖なる無憂樹の木陰に団体の観光客が座ってガイドの説明を聞いていた。近づいてみると韓国語だった。           マーヤー聖堂をバックに・・ ゴーダマ・シッタールタは産まれてすぐに7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と右手の人差し指を天に指し、左手の指で地を指したと伝えられるリレーフが金色に光っていた。 ゴーダム・シッタールタ沐浴した池や、マヤデヴィ王妃入浴したシャキス・ブスカリー湖などが今も残されていた木陰に団体の観光客が座ってガイドの説明を聞いていた。韓国語だった。。心地よい風、農村の中の緑の庭園に夕焼けが・・・  「ルンビニ庭園」は紀元前245年(今から2256前)にインドの皇帝アショーカによって作られたとされる広大なエリアで十数㎞四方は有にあるだろうか、 翌日は自転車を借りて回ることにした。ガイドの父親は人力車に乗って回った。 1978年、「ルンビニ釈尊生誕地聖域計画」が立案され、日本の建築家、丹下健三氏マスタープランを作成、現在もこの計画に基づき整備が進められている。庭園Entranceに丹下健三氏の写真と庭園マップのサインボードがある。 このマスタープランは国際連合の元事務総長ウ・タント(ミヤンマー)の提唱により開始されている。  一休みしていると、カップルが組みひもを編んでいる。声をかけてみた、パキスタンの近くに住むインド人で、一緒にカメラに収まった。インドとネパール人はパスポートなしに国境を自由に行き来できる 私は現地で「救済の聖地ルンビニ」260P(ネパール環境文化総合研究所発行)の日本語版を購入した。

Nepal その5 救済の聖地、Lumbini →釈迦の育った王宮(ティラウラコット)へ

救済の聖地、Lumbini→釈迦の育ったカピラヴァスツ城跡王宮へ 早朝6:00ホテルから日の出を見た。今日はいよいよ期待していた釈尊の古巣へ出向く・・・昨夜も湯が出なくで水でのシャワーだったが体調はGood。 聖地の朝明け 昨日歩いたルンビニ庭園の奥まで自転車と人力車(ガイドの父親)で回ることにした。 広大な豊富な緑の大地にさまざまなスタイルの寺院や仏塔が建てられている。このマスタープラン丹下建三氏のものというのに親しみを覚えると同時に感銘を受けた。仏教の広まっている国々、ネパール・ミヤンマー・スリランカ・韓国・中国・タイ・日本・ドイツ・ベトナム・フランスなどの国々が独自の寺院や仏塔、僧院を建てていた。まだ建造中のものもあった。 いずれも周りのロケーションと調和し、且つ、見事にそれぞれのお国柄を表現していた。東南アジアのそれは知っていたがドイツ・フランスは意外だった。 マヤ・デビィ寺院マーヤー聖堂の横に立っているのが、インドのアショーカ王が即位して20年にこの地を訪れて建てたといわれる石柱 アショーカ王の石柱 日本寺院前のハスの池 日本人経営のホテルで昼食、チキンの包焼とむすび 現地でチャーターした専用車で,ルンビニの西27Kmのティラウラコットに向かった。道は舗装されていない。車がようやく通れるほどの村の道だ。 ティラウラコットカピラヴァスツ城跡 後に釈迦となる釈迦族の王子、ゴーダマ・シッダールタが29歳で出家するまで過ごしていた、カピラヴァスツ城跡を訪ねた。 東西400m北西500mという敷地に金網のフエンスがあった。ガイドが云うには、数年前にはなかったらしい。一見何の変哲もない入り口に署名簿が置いてあり、外国人が記名することになっている。見ると私の前に日本人が一人署名していた。訪れる人は少ない。管理を任されている男性が場内の遺跡を案内してくれた。入り口になっているところが西の門になる。 周りのロケーションは釈迦族が農耕民族であったことを窺わせる。ゴータマ皇太子として何不自由なく過ごしていた宮殿カピラヴァスツ城跡だ。 ゴータマ・シッダールタは、幼少のころから、田畑の虫をついばむ鳥を見ては、この世の無常を感じていたという繊細な心の持ち主であった。16歳で結婚し子供を設け、29歳で出家を決意するまでこの城で過ごしている。 ”城を去る”決定的となったのは「四門出遊」の故事とされる。ある時、釈迦が城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じ深く思い悩んだ。あるとき北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。 今に残されたこの周りのロケーションは彼にどのような影響を与えたのであろう。南側に繁る森が見える、往時を忍んで興味は尽きない。高い樹木に赤く咲く花は、2400年間の歴史をどう語るのだろう。 釈迦はインドへ向かい6年後35歳で悟りを開き、その後45年の間、法を解いて歩いた。苦悩する人の機根に応じた「対機説法」と云われている。80歳で入滅までの間に幾度かこのティラウラコットに戻って、スッドーダナ王(父親)に合っている。このような重要な カピラヴァスツ城跡が未だ発掘調査が進んでいないとは・・。意外だった。 ネパール政府の経済的な問題であろう。それはルンビニ庭園にくらべてあまりに違いがある。 East Gate (東の門) その日、愛馬カンタカに乗り東の門から、后や子供を置いて城を後にして進んだという台地がのどかに広がっていた。 東門の看板がネパール語と英語で書いてあった。Buddhistの私には何故か懐かしく、立ち去り難い遺跡の叢ををゆっくりと散策した。 小さな博物館で発掘された土器や宝石を見学した。何れ立派なものに建て替えられるのであろうが・・。中国人僧侶玄装は7世紀にここを訪ねており、高い壁と東西南北に四つの門を見たと記している。現在のところ南と北の門は発掘されていない。樹木が茂っていた。「歩けますか?」と案内人に問うと「今は出来ない」という返事だった。 周囲に麦の畑が広がっている。静かだ。観光客は私たちだけ・・。 管理人の説明を聞きながら400mを歩いて東の門まで来た。なんと暑い。摂氏35度ぐらいか。 ネパール政府考古局によって行われた発掘調査によると、建設は3回にわたって行われ、1回目の建設では粘土の壁で造られ、彩文灰色土器や彩文赤色土器が発掘され、紀元前7~6世紀のものと記され、2回目の建設では黄色っぽい粘土でつくられており、紀元前2世紀のものとされる。案内者が指し示す煉瓦の色ははっきりと色が違っていた。 私はこの旅に備え「ブッダの生涯」著者=ジャン・ボワスリエ、訳者=富樫瓔子(創元社)を読んでいた。併せて「救済の聖地ルンビニ」からもそれなりの知識を得た。、 ゴーダマが出家してインドへ向かい初めはバラモン教をはじめ、いくつもの指導者のもとで学び、瞑想し、断食し、厳しい修行に耐えたが、納得するものは得られなく、結局は独自の修行の中で、6年の後、インドのブッダガヤで悟りを開く。それは35歳の誕生日の満月の夜、「至高完全なる悟り」に到達し仏陀(ブッダ)となったといわれる。”菩薩は瞑想の段階を経て、その知性は一委のつながりから解き放され、沈着でゆるぎない、くまなく清らかな境地」へと導かれる覚醒 「初転法輪」といわれる初めての説法が行われたサルナート。その後45年間、各地で弟子たちに法を説き、托鉢して歩いたという。遠方から師をもとめて弟子が絶えなかったとも・・。弟子たちと教団をつくり仏教が伝播していったが、教義や流派はいくつもに別れていった。 80歳でインドのクシナーラーでの入滅まで壮大な人間ドラマがあったのだと・・。 このBLOGは私の地球放浪記であり、釈迦の思想と経歴を語る場ではない。 ただ、それぞれの場でいくつもの説があることを知った。詳細は専門家の手に・・。

Nepal  その6 India Border へ(インド国境へ)

 専用車はいくつかの遺跡を巡りながらインド国境へ向かった。 この辺りにはカピラヴァスツ城跡と同時代の遺跡がいくつかあるという。いずれも未整備のまま、途中に立ち寄った遺跡Kudan僧院である。わずかに煉瓦の構造物が残されていた。周りには数件の農家があるのみ、目印もなくひっそりと残されていた。 入口もない。ただ、係員が署名簿を持って手持無沙汰に椅子にすわっていた。数枚の写真を収める。 いずれこの遺跡もきちんと発掘保存されるのであろうが・・。 車は麦畑のあぜ道のような道路を通った。川で遊ぶ子供たち、牛を洗う農民・・・いつかどこかで見た記憶が・・。 幹線道路に戻りインドを目指す。徐々に車や人の往来が多くなる。一台の車に数人が乗っていた。ネパールでたびたび目にした光景だ。 国境のゲートが見えてきた。ここのゲートにImmigration Office(入国管理事務所)がない。ゲートの前方15mぐらいの所にインド側のPoliceman(ポリスマン)Armyの待機所のようなものが見える。ネパール人は自由にここを超えてインドへ入れるが、私はここから一歩も入れない。ガイドと父親は私を残しどんどんインド領へ進んで行って、なかなか戻ってこない。 ネパール領ゲートの横にPoliceman(ポリスマン)の待機所がある。周りを見回しても外国人は私だけのようだ。傍にいたポリスマンに試しに聞いてみた。Can I going to over? するとNo you can’t over, 続けて私はI have passport , するとNo No と云いながらそばの椅子をすすめてくれた。私のガイドが行ってしまったのを知っていたのだろう。 日本の女性が珍しいのか、後ろの方の男性が写真を一緒に取ろうという。警察の傍だから大丈夫だろうとカメラを渡した。  戻ってきたガイドは云う「インド側の写真を撮ってはいけないのだ」と・・そうかも知れないとは思っていたが私は既に、数枚をデジタルカメラで写した後だった。傍にいたネパールポリスマンも何も言わない。警察や軍関係者の撮影禁止は知っているが、どこを見ても隠さねばならない建物や施設は見当たらないのに・・・。おかしい! 人が行き交い混とんとしたIndia Borderだった。 旅も半ばを終え明日はカトマンズに戻る。 ネパールの農村の景色はいい。幼い日の記憶の原風景なのか、穏やかな気分になる。

Nepal その7  Boudhanath(ボダナート)

その7 Local Airportルンビニ空港から首都カトマンズに戻った。往路は8時間かかった距離を30分でカトマンズ空港へ・・。外国人はネパール人の2倍の航空運賃を払うことになっている。  帰国まで2日間を残す。自家発電装置のある、サテライトの受信可能なホテルに移動した。 日本の東日本震災のその後の詳しい状況を知りたい。BBC・CNN・NHKWORLDのニュースに釘付けになり、予定していた観光も大幅に変更した。 Boudhanath(ボダナート) 南アジア最大の仏塔を持つ寺院(世界遺産)ボダナートに出かけた。 高さ36mの白亜の円形仏塔に威圧される。5世紀ごろからチベットとの交易のルートにあって、旅の安全祈願や休憩所として栄えていったという。 1950年、中国から亡命してきたチベット人の多くがこの周りに住むようになり、リトル・チベット街が出来たと資料にある。雑踏の中を僧侶が歩いている。塔の上からは五体投地で参詣する人も・・・。 丁度、結婚式があったようで飾られた車や、祝う人垣で賑わっていた。